科学の系統を述べているのでないと思えばよい。
 磁石の作用を考えている中に「感応」の観念の胚子《はいし》、「力の場」「指力線」などの考えの萌芽《ほうが》らしいものも見られる。しかし全体としての説明は不幸にして今の言葉には容易に書き直されないものである。
 終わりには「病気」に関する一節があって、そこには風土病と気候の関係が論ぜられ、また伝染病の種子としての黴菌《ばいきん》のごときものが認められる。
 最後にアゼンスにおける疫病流行当時の状況がリアルな恐ろしさをもって描き出されている。マンローによればこれはおもにツキジデスを訳したものだそうであり中には誤謬《ごびゅう》もあるそうである。これは医者が読んだらさだめておもしろいものであろうと思う。この中には種々多様の悪疫の症状が混合してしるされているそうである。この一節はいわゆる空気伝染をなす病気の実例として付け加えられたものであろう。
 この疫病の記述によってルクレチウスの De Rerum Natura は終わっている。これはわれわれになんとなく物足りない感じを与える。ルクレチウスはおそらく、この後にさらに何物かを付加する考えがあったのではないか。私はこの書に結末らしい結末のない事をかえっておもしろくも思うものである。実際科学の巻物には始めはあっても終わりはないはずである。

     後記

 ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。またわれわれの科学的想像力の枯渇した場合に啓示の霊水をくむべき不死の泉である。また知識の中毒によって起こった壊血症を治するヴィタミンである。
 現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。
 実際昔も今も、科学の前衛線に立って何か一つの新しき道を開いた第一流の学者たちは、ある意味でルクレチウスの後裔《こうえい》であった。現在でもニエルス・ボーアやド・ブローリーのごときは明
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