れてある。
 表面の粗なる物体にこの「像」が衝突した場合には、この薄膜の像が破れてしまうから、映像を生じないという説明や、また遠方の物体が不鮮明に見えるのは長く、空中を飛行する間に無数の衝突を受けて、像のとがった角《かど》が次第につぶれてしまうからであるという光の拡乱の説明は、やや近代的なものを含んでいる。
 知覚が与えるものは常に正しくても、その判断の誤りから錯覚を生ずると言っていろいろの例もあげてある。そしてこれに続いて自然の認識の基礎となるべきものはしかし結局|吾人《ごじん》の感覚にほかならないという感覚論的方法論の宣言がある。これは後にマッハの一派によって展開されたものの先駆をなすものと見られる。そしてプランクらの「感覚からの開放」という言葉が彼らの意味では正当であるとしても、われわれはこのルクレチウスの所説もまた同時に真理として認容しなければならない。いかに人間が思い上がってみたところで、五官を封じられてしまって、そうして物理学の課程を学ぶ事がどうしてできるであろうか。
 音響はやはり一種の放射物であるが「像」のようなものとは考えられていないらしい。そして音の散乱、反射というようなものも、どうにか論じてある。おもしろいのは音の回折の事実を述べてある所に、ホイゲンスの原理に似た考えが認められる。すなわち一つの音から次の音が生まれる。ちょうど一つの火花から多くの火花が生まれるようだと言っているのである。そして、光は影を作るが音は影を作らない事実に注意を向けている。
 私は昔ある場所の入学試験の問題として、音波と光波の見かけの上の回折の差を証明する事を求めたが、正解らしい要点に触れたものはまれであった。多くの学生らは教科書に書いてない眼前の問題はあまり考えてみないものと思われる。そして教わったものなら、どんなめんどうな数式でも暗記していて、所問に当たろうが当たるまいが、そのままに答案用紙に書き並べるのである。二千年前のルクレチウスのほうがよりよき科学者であるのか、今の教育方針が悪いのか、これも問題である。
 香や味の問題その他生理学的の問題の所説は全部略する。ただこの条に連関して人間の生活官能は人間の用途のために設計して作られたものではなくて、官能があって後にその用が生まれるものであると言って、目的論的自然観に反対する所論のある事を注意しておきたい。
 巻末に性
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