、元子に可触的物体と同じような二次的属性を付与する事の不都合を詳述している。たとえば元子に色があるとしては、同じものの色の変化することを説明し難い。色の変化は元子の排列順序の変化あるいは元子の交代によって説明せられうると言っている。これもはなはだ近代的である。
 色は光あって始めて生じるものであると言っているのも正しい。暗中では色の見えぬ事、照らす光によって色のちがって見える事が引証されている。有色物質を粉末にすると次第に褪色《たいしょく》するという事実が引用されているのもおもしろい。つまり、彼の考えではいっそう細かく分割して元子まで行けば無色になると言うつもりらしく読まれる。しかしここにいう色彩とそれが目を刺激する元子との関係はよくわからないのが遺憾である。
 光が当たって色を生ずるのは光の元子の衝突し方によるもので、そのしかたの差は物質元子の形状によると述べてある。これはある程度まで近代的に翻訳する余地があるかと思われる。
 同様に元子は香も味もなく、声も発せず、また熱くも冷たくもない。そういう変わりやすい無常的なる二次的属性が永遠不変なるべき元子にあるはずがない。
 色のないものから色が生じるように、感覚のない土から蚯蚓《みみず》が生まれる。草や水が牛馬に変わる。同じ元子が混合排列のしかたや運動のしかたによっていろいろのものができる。ここで彼は生物がいかにして無機物から生じうるかを説明せんと試みている。後条で精神の元子を論ずるのであるからここでそういう議論は必要がなさそうにも思われるが、しかしここでは心や精神と切り離して感覚を考えているらしい。それはとにかく、感覚を有するものの素成元子は感覚を有すべきだとする事は必要としない。むしろありとするほうが不合理だとする彼の所説にはかなり重要な意義を含蓄しているように思われる。結局はこれもやはり前にたびたび繰り返した、物質と生命との間の「見失われた鎖環」に関する考察の一端である。平たく言えば、もし元子が生物のごときまとまった感覚をもつとしたら、それの集合したものがいかにして一つのまとまった感覚を持ちうるかという考えであると読まれる。
 その次に、生物がはげしい衝撃を受けると肉体と精神との結合が破れて後者が前者の孔《あな》から逃げ出すというような考えから、苦痛や快楽の物質的説明を試み、「笑いの元子」などというものはないと
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