あ》る何かのエネルギーあるいは「作用《ウィルクング》」のごとき量を基本的のものとしてこれを空間と対立させる事によって、新しき力学的系統を立て直す事は不可能であろうか。そうする事によっていろいろの現代の物理学当面の困難が解決されうる見込みはないものであろうか。少なくもルクレチウスの言葉はこういう問題を示唆するもののように思われる。
 次に彼は論じて言う。元子からいろいろの硬《かた》さのものが造られるが、元子自身は完全に剛体であると考えなければならない。なんとならば、元子が柔らかいものであれば、これはその中に空虚を含んでいる。しかるに空虚と元子と対立すべきその元子の中に空虚が含まれているわけには行かない。where'er be empty space, there body's not; and so where body bides, there not at all exists the void inane. である。ここで私は思い出す。かつて分子や原子の「弾性」という事が問題になった事がある。可触的物体の「弾性」を説明するために持ち出された分子や原子に、可触的物体と同じような「弾性」を考えようとすることの方法論的の錯誤あるいは拙劣さが、今このルクレチウスの言葉によって辛辣《しんらつ》に諷《ふう》せられているとも見られない事はない。
 ともかくも物質元子に、物体と同様な第二次的属性を与える事を拒み、ただその幾何学的性質すなわちその形状と空間的排列とその運動とのみによって偶然的なる「無常」の現象を説明しようとしたのが、驚くべく近代的である。そしてまさにこの点で彼が、彼の駁撃《ばくげき》を加えているヘラクリトス、エンペドクレース、アナクサゴラスの輩《やから》をいかにはるかに凌駕《りょうが》しているかを見る事ができよう。そして現在においても科学者と称するものの中に、この三者の後裔《こうえい》が、なおまれには存在している事を彼によって教えられるのである。
 元子は恒久的な剛単体 solid singleness でなければならない。そして微小ではあるが有限の大きさをもたなければならないという事を証明しようと試みている。剛体でなければ、それから剛体が作り得られないであろう。恒久なものでなければ、恒久に無常なこの世界を補充 replenish する事ができないであろう。またもし
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