某百貨店でトリルダインと称する機械を買って来て据付けた最初の日の夕食時に聞いたのは、伴奏入りの童話で「蟻《あり》と蟋蟀《きりぎりす》」の話であった。食糧を貯蔵しなかった怠け者の蟋蟀が木枯しの夜に死んで行くというのが大団円であったが、擬音の淋しい風音に交じって、かすかなバイオリンの哀音を聞かせるのが割に綺麗に聞きとれるので、これくらいならと思って安心したのであった。
 色々な種類の放送のうちで自分にいちばん苦手なのは演説講演の類である。耳が悪いせいか、「かん」が悪いせいか、本物の演説を聞くのでも骨の折れるくらいであるから、完全でない機械で変形された音波の混乱の中から、変形されない元の波を読取ることはなかなか困難である。それを聞取ろうとする努力はかなりに頭を疲らせる。それで断念して聞かないつもりになっても、音の出ている限り注意を引かれない訳には行かない。いっその事全部分からないアラビア語ででもあればかえって楽であろうが、困った事には時々ところどころ分かる日本語であるからいけないのである。注意が自然と其方《そっち》に向かうのを引戻し引戻しするための努力の方が、努めて聞こうとする場合の努力よりもさらに大きいかもしれない。
 しかるに、これが音楽となるとそういう心配はないようである。楽器の音色《ねいろ》がかなり違って聞こえても、管弦楽はやはり管弦楽として聞取られるし、長唄はやはり長唄として聞かれる。聞きたくなければ聞流している事も音楽ならばそれほど困難ではない。これは自分が音楽に対して素人《しろうと》であって、日本語に対して玄人《くろうと》であるためかもしれない。しかしまた人間の言語というものがあらゆる音響現象のうちで最も精妙を極めた機巧を具備したものだという事を意味するかもしれない。音楽の方はかなりまで好い加減に色々に変化させても、やはり同じものとして認め得られるが、人間の言語はそれがただほんのごくわずかでも変形すればもはや全然別のものに変って識別出来なくなってしまうのである。
 それはとにかく、講演でも自分のよく知っていて始終互いに談話を交わしている人の講演ならば、あまり言語明晰でない人のでもよく分かるような気がする。そういう場合には話している人の「顔が見える」。そうしてそれが音の不完全を助けて理解を容易にするように思われる。「話し振り」をよく知っているという事は、
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