立するのである。
 物理のような基礎科学の教科書が根本の物理そのものはろくに教えないで瑣末《さまつ》な枝葉の物理器械や工学機械のカタログを暗記させるようなものでは困ると思う。レビュー式でも本当に面白いレビューならまだしも、さっぱり面白くない百景を並べたのでは全く生徒が可愛相《かわいそう》である。結局は物理学そのものが嫌いになるだけであろう。
 レビュー見学のノートから脱線してつい平生胸に溜まっていた教科書の不平をこぼしてしまったが、こういう脱線もまた一つのレビュー的随感録の一様式中の一景として読者の寛容を願いたいと思う。
 政府の統制の下に組織された教育のプログラムがレビュー式であるくらいだから、民間の営利機関の手に成る大衆向けの教育機関であるところの雑誌や新聞のレビュー式ないしは汽車弁当式であることは当然である。たまたまレビュー式でない雑誌はあるが、そういうのは特別な関係の誌友類似の予約講読者のあるものに限るので、一般大衆を相手にするものは出来るだけレビュー式編輯法を採らなければ経営が困難だということである。誠に尤もな次第と思われる。
 一体レビュー式ということには何もそれ自身に悪い意味は少しもないはずである。善用すればむしろ非常に好い効果をあげ得べき可能性を多分にもっているものである。
 近頃ある薬学者に聞いた話であるが、薬を盛るのに、例えば純粋な下剤だけを用いると、どうも結果は工合よく行かない、しかし下剤とは反対の効果を生じるような収斂剤《しゅうれんざい》を交ぜて施用《しよう》すると大変工合がよいそうである。つまり人間の体内に耆婆扁鵲《ぎばへんじゃく》以上の名医が居て、それが場合に応じて極めて微妙な調剤を行って好果を収めるらしいというのである。「それじゃ結局昔の草根木皮を調合した万病の薬が一番合理的ではないか」と聞いたら「まあ、そんなものだね」という返事であった。自分に必要なものを選択して摂取し、不用なもの有害なものを拒否し排出するのが、人間のみならずあらゆる生物の本性だということは二千年前のストア哲学者が既に宣言していることである。生物が無生物とちがうのもこの点においてである。
 これも近頃聞いた話であるが、稲の生長を助けるアゾトバクテルという黴菌《ばいきん》がある。また同じような作用をする原生動物《プロトゾア》がある。ところが最近の日本の学者の研究によると
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