れがDになっている。これが心の世界である。

         七

 ファシストはアルプスを愛し、リベラリストはラインやエルベの川の景色を、マルキシストはツンドラや砂漠の景色を好むかもしれない。松やもっこくやの庭木を愛するのがファシストならば、蔦《つた》や藤やまた朝貌《あさがお》、烏瓜《からすうり》のような蔓草を愛するのがリベラリストかもしれない。しかし草木を愛する限りの人でマルキシストになれる人があろうとは想われない。

         八

 防空演習の夜にとうとうおしまいまで燈火を消さなかったのが近所の風呂屋である。何度となく警告しに来た青年団員がおしまいに少し腹を立てたらその時だけ消した。しかし青年団員が一町も行過ぎるとまた点燈した。尤も電燈を消さなかったのは風呂屋の主人であるが、それを消させなかったのは浴客である。サイレンが鳴り、花火が上がり、半鐘が鳴っている最中に踵《きびす》を接して暖簾《のれん》を潜って這入《はい》って行く浴客の数は一人や二人ではなかったのである。風呂屋の主人は意外な機会に変った英雄主義を発揮して見せた訳である。尤も同時に若干の湯銭を獲得したことも事実ではあるが。

         九

 今朝五時頃に眼が覚めて床の上でうとうとしているとき妙なことを思い出した。子供の時分に姉の家に庫次という眇目《すがめ》の年取った下男《げなん》が居た。それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹《かつお》の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向《あおむ》いた自身の口をもって行って、見る間にぺろぺろと喰ってしまって、そうしてさもうまそうに舌鼓をつづけ打った。その時の庫次|爺《じい》の顔を四十余年後の今朝ありありと思い浮べたのである。どうしてそんなことを想い出したかが分からない。その直前にどんなことを考えていたかと思って聊《いささ》か覚束《おぼつか》ない寝覚めの記憶を逆に追跡したが、どうもその前の連鎖が見付からない。しかし、その少し前にこの夏泊った沓掛《くつかけ》の温泉宿の池に居る家鴨《あひる》が大きな芋虫を丸呑みにしたことを想い出していた。それ以外にはどうしてもそれらしい聯想の鎖も見付からないのである。青い芋虫と真紅の肉片、家鴨と眇目の老人では心像の変形が少しひど過ぎるが、しかしこの偶然な一と朝の経験から推して考えてみるとフロイドの「夢判断」の学説も、そのことごとくが全くの故事付《こじつ》けではないかもしれないという気がして来るのである。

         十

 四、五月頃に新宿駅前から帝都座前までの片側の歩道にヨーヨーを売る老若男女の臨時商人が約二十人居た。それが、七月半ば頃にはもう全く一人も居なくなってしまった。そうしてその頃からマルキシストの転向が新聞紙上で続々として報道されている。後世の頭のいい史家でヨーヨーとマルクスの関係を論ずるものが出ないとも限らない。七月下旬に沓掛へ行ったときは時鳥《ほととぎす》が盛んに啼いたが、八月中旬に再び行ったときはもう時鳥を聴くことが出来なかった。すべては時の函数《かんすう》である。

         十一

 赤いカンナが色々咲いている。文字で書けば朱とか紅とかいうだけであるが、種類によってその赤い色がことごとくちがう。よく見ると花ばかりでなくそれぞれの葉の色も少しずつ違う。それが普通にはみんな赤いカンナと緑の葉で通るのである。人間の言葉の不完全なことがよく分かる。こんな不完全な言葉を使った「論理」などは当てになるはずがない。煽動者の利器とする詭弁《きべん》の手品の種はここから出て来るのである。

         十二

 一と頃、学生の観客の多い映画館で、ニュース映画の中にたまたまソビエトの赤旗の行列などがスクリーンに現われると、観客席の暗闇から盛んな拍手が起るのであった。ことによると、自分の中にもどこかに隠れているらしい日本人固有の一番みじめな弱点を曝露されるような気がして暗闇の中に慚愧《ざんき》と羞恥《しゅうち》の冷汗を流した。

         十三

 健康な人には病気になる心配があるが、病人には恢復するという楽しみがある。瀕死を自覚した病人が万一なおったらという楽しみほど深刻な強烈な楽しみがこの世にまたとあろうとは思われない。古来数知れぬ刑死者の中にもおそらくは万一の助命の急使を夢想してこの激烈な楽しみの一瞬間を味わった人が少なくないであろう。

         十四

 日本人の名前をローマ字で書くのにいろいろの流儀がある。しかしまだ誰も Toyo Tomi Hide Yosi という風に書く人はないようである。しかし、
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