つまでもはっきり自分の印象に残っている。
 一度S軒に呼ばれて昼飯をいっしょにごちそうになったときなども、なんであったか忘れたが学問には関係のないおどけた冗談を言ったりして珍しい笑顔《えがお》を見せたこともあった。
 ある日少しゆっくり話したいことがあるから来てくれと言って来たのでさっそく行ってみると、寝巻のまま寝台の上に横になっていた。少しからだのぐあいが悪いからベッドで話すことをゆるしてくれという。それから、きょうはどうもドイツ語や英語で話すのは大儀で苦しいからフランス語で話したいが聞いてくれるかという。自分はフランス語はいちばん不得手だがしかしごくゆっくり話してくれればだいたいの事だけはわかるつもりだと言ったら、それで結構だと言ってぽつぽつ話しだしたが、その話の内容は実に予想のほかのものであった。
 自分にわかっただけの要点はおおよそ次のようなものであったと思う。しかし、聞き違え、覚え違いがどれだけあるか、今となってはもうそれを確かめる道はなくなってしまったわけである。
 B教授は欧州大戦の刺激から得たヒントによってある軍事上に重要な発明をして、まずF国政府にその使用をすすめたが採用されないので次に某国に渡って同様な申し出をした。某国政府では詳しくその発明の内容を聞き取り、若干の実験までもした後に結局その採用は拒絶してしまった。しかしどういうものかそれ以来その某国のスパイらしいものがB教授の身辺に付きまつわるようになった、少なくもB教授にはそういうふうに感ぜられたそうである。その後教授が半ばはその研究の資料を得るために半ばはこの自分を追跡する暗影を振り落とすためにアフリカに渡ってヘルワンの観測所の屋上で深夜にただ一人黄道光の観測をしていた際など、思いもかけぬ砂漠《さばく》の暗やみから自分を狙撃《そげき》せんとするもののあることを感知したそうである。この夜の顛末《てんまつ》の物語はなんとなくアラビアンナイトを思い出させるような神秘的なロマンチックな詩に満ちたものであったが、惜しいことに細かいことを忘れてしまった。
「それから船便を求めてあてのない極東の旅を思い立ったが、乗り組んだ船の中にはもうちゃんと一人スパイらしいのが乗っていて、明け暮れに自分を監視しているように思われた。日本へ来ても箱根《はこね》までこの影のような男がつきまとって来たが、お前のおかげでここへ
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