やもり物語
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)情ない空風《からかぜ》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その後|田舎《いなか》へ帰ってから

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小さいやもり[#「やもり」に傍点]であった。
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 ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。
 毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風《からかぜ》が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処《ここ》らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が悪くなる。殺風景な下宿の庭に鬱陶《うっとう》しく生いくすぶった八《や》つ手《で》の葉蔭に、夕闇の蟇《ひきがえる》が出る頃にはますます悪くなるばかりである。何をするのも懶《ものう》くつまらない。過ぎ去った様々の不幸を女々《めめ》しく悔やんだり、意気地のない今の境遇に愛想をつかすのもこの頃の事である。自分のような身も心も弱い人間は、孟夏を迎うる強烈な自然の力に圧服されてひとりでにこんな心持になるのかと考えた事もある。こんな厭な時候に、ただ一つ嬉しいのは、心ゆくばかり降る雨の夕を、風呂に行く事である。泥濘《ぬかるみ》のひどい道に古靴を引きずって役所から帰ると、濡れた服もシャツも脱ぎ捨てて汗をふき、四畳半の中敷に腰をかけて、森の葉末、庭の苔の底までもとしみ入る雨の音を聞くのが先ず嬉しい。塵埃にくすぶった草木の葉が洗われて美しい濃緑に返るのを見ると自分の脳の濁りも一緒に洗い清められたような心持がする。そしてじめじめする肌の汚れも洗って清浄な心になりたくなるので、手拭をさげて主婦の処へ傘と下駄を出してもらいに行く。主婦はいつもこの雨のふるのにお風呂ですかと聞くが、自分は雨が降るから出掛けるのである。門を出ると傘をたたく雨の音も、高い足駄《あしだ》の踏み心地もよい。
 下宿から風呂屋までは一町に足らぬ。鬱陶しいほど両側から梢の蔽い重なった暗闇阪《くらやみざか》を降り尽して、左に曲れば曙湯《あけぼのゆ》である。雨の日には浴客も少なく静かでよい。はいっているうちにもう燈《ひ》がつく。疲労も不平も洗い流して蘇《よみがえ》ったようになって帰る暗闇阪は漆《うるし》のような闇である。阪の中程に街燈がただ一つ覚束ない光に辺りを照らしている。片側の大名邸の高い土堤の上に茂り重なる萩《はぎ》青芒《あおすすき》の上から、芭蕉の広葉が大わらわに道へ差し出て、街燈の下まで垂れ下がり、風の夜は大きな黒い影が道一杯にゆれる。かなりに長いこの阪の凸凹道にただ一つの燈火とそのまわりの茂りのさまは、たださえ一種の強い印象を与えるのであるが、一層自分の心を引いたのはその街燈に止った一疋の小さいやもり[#「やもり」に傍点]であった。汚れ煤けたガラスに吸い付いたように細長いからだを弓形《ゆみなり》に曲げたまま身じろきもせぬ。気味悪く真白な腹を照らされてさながら水のような光の中に浮いている。銀の雨はこの前をかすめて芭蕉の背をたたく。立止って気をつけて見ると、頭に突き出た大きな眼は、怪しいまなざしに何物かを呪うているかと思われた。
 始めてこの阪のやもりを見た時、自分はふとこんな事を思い出した。自分が十九歳の夏休みに父に伴われて上京し麹町《こうじまち》の宿屋に二月ばかり泊っていた時の事である。とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更《ふ》けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴《さ》える。外には程近い山王台《さんのうだい》の森から軒の板庇《いたびさし》を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲い来る雨の足に座敷からさす灯が映えて、庭は金糸の光に満つる。恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣《ゆかた》の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の戸を一枚々々としめて行って残る一枚を半ばで止め、暗い庭の方をじっと見ている。自分は父の机の前に足と投出したままで無心に華車《きゃしゃ》な浴衣の後姿から白い衿頸《えりくび》を見上げた時、女は肩越しにチラと振り向いたと思う間に戸をはたとしめた。この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧のように細かな雨が降っている。何処《どこ》かで轡虫《くつわむし》の鳴くのが静かな闇に響く。夢から醒めたような心持である。戸袋のすぐ横に、便所の窓の磨硝子《すりガラス》
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