大名邸の高い土堤の上に茂り重なる萩《はぎ》青芒《あおすすき》の上から、芭蕉の広葉が大わらわに道へ差し出て、街燈の下まで垂れ下がり、風の夜は大きな黒い影が道一杯にゆれる。かなりに長いこの阪の凸凹道にただ一つの燈火とそのまわりの茂りのさまは、たださえ一種の強い印象を与えるのであるが、一層自分の心を引いたのはその街燈に止った一疋の小さいやもり[#「やもり」に傍点]であった。汚れ煤けたガラスに吸い付いたように細長いからだを弓形《ゆみなり》に曲げたまま身じろきもせぬ。気味悪く真白な腹を照らされてさながら水のような光の中に浮いている。銀の雨はこの前をかすめて芭蕉の背をたたく。立止って気をつけて見ると、頭に突き出た大きな眼は、怪しいまなざしに何物かを呪うているかと思われた。
始めてこの阪のやもりを見た時、自分はふとこんな事を思い出した。自分が十九歳の夏休みに父に伴われて上京し麹町《こうじまち》の宿屋に二月ばかり泊っていた時の事である。とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更《ふ》けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴《さ》える。外には程近い山王台《さんのうだい》の森から軒の板庇《いたびさし》を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲い来る雨の足に座敷からさす灯が映えて、庭は金糸の光に満つる。恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣《ゆかた》の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の戸を一枚々々としめて行って残る一枚を半ばで止め、暗い庭の方をじっと見ている。自分は父の机の前に足と投出したままで無心に華車《きゃしゃ》な浴衣の後姿から白い衿頸《えりくび》を見上げた時、女は肩越しにチラと振り向いたと思う間に戸をはたとしめた。この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧のように細かな雨が降っている。何処《どこ》かで轡虫《くつわむし》の鳴くのが静かな闇に響く。夢から醒めたような心持である。戸袋のすぐ横に、便所の窓の磨硝子《すりガラス》
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