れに台所で皿鉢《さらばち》のかち合う音が聞こえても三毛は何も知らずに寝ていた。おそらくまだねずみというものを見た事のない彼女の本能はまだ眠っているのだろうと思われた。
あんまりいじめると、もうどこかへやってしまうとか、もとの家へ返してしまうとかいうおどかしの言葉が子供らの前で繰り返されていた。とうとう飼い主の家に相談して一両日静養させてやる事にした。
猫《ねこ》がいなくなるとうちじゅうが急にさびしくなるような気がした。おりから降りつづいた雨に庭へ出る事もできない子供らはいつになくひっそりしていた。
いつもは夜子供らが寝しずまった後に、どうかすると足音もしないで書斉にやって来て机の下からそっと私の足にじゃれるのを、抱き上げてひざにのせてやると、すぐに例のゴロゴロいう音を出すのであったが、その夜はもとよりいないのだから来るはずはなかった。仕事がすんでゆっくり煙草《たばこ》をすいながら、静かな雨の音を聞いているうちに妙な想像が浮かんで来た。三毛がほんとうにどこかへ捨てられて、この雨の中をぬれそぼけてさまよい歩いている姿が心に描かれた。飢えと寒さにふるえながらどこかのごみ箱のまわりでもう
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