しをすることもできるのである。重力の講義をする物理学の先生が、重力は時々人殺しをする不都合なものであると言って生徒を訓戒したらそれは滑稽《こっけい》を通り越してしまった狂気の沙汰《さた》であろう。しかし、おとぎ話に下手《へた》な評注を加えるのはほとんどこれに類した滑稽に堕しうる可能性がある。
これに関連して思うことは今日の普通教育のしかたに共通した一種の器械的な形式主義がありはしないかということである。昔の小学校の先生などとちがってあまりに立派な教育者としての素養があり過ぎるために、またその上に文部省の監督があまりに行き届き過ぎるために教場における授業が窮屈で煩瑣《はんさ》な鋳型にはいってしまって、その結果は自由に広大であるべきものを極端に制限してしまっているのではないかという疑いがある。たとえば小学校の理科の教程といったようなものを見ても、その膳立《ぜんだ》てが立派であると同時に料理の種がすっかり限定されてしまって、生徒はそれだけを食って満足するが、他に食物のあることをいっさい忘却してしまう。そうして、今度ひとりで旅に出ると宿屋の食膳《しょくぜん》のおかずの食い方がわからないといっ
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