ちがった形で日常にわれわれの周囲のどこかに起こっていることなのである。その事が善《よ》いとか悪いとかいう批判を超越して実際にこの世の中に起こっている事実なのである。
 握り飯と柿《かき》の種の交換といったような事がらでも毎日われわれの行なっていることである。月謝を払って学校へ行くのでも、保険にはいるのでもそうである。お寺へ金を納めて後生を願うのでもそうであり、泥棒《どろぼう》の親分が子分を遊ばせて食わせているのでもそうである。それが善い悪いは別としてこの世の事実なのである。
 さるのような人もありかにのような人もあるというのも事実であって、それはこの世界にさるがありかにがある事実と同じような事実である。さるなどというもののあるのはいったい不都合だと言って憤慨してみたところで世界じゅうのさるを絶滅することはむつかしい。かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂《はち》やいが栗《ぐり》や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあん石が飛び出して来るかもしれない。また、桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎《くりたろう》が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫《ねこ》やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう。いくらそんな不都合なことはいけないと言っても、どうしてもだれか征伐に行くのが現世の事実である。その証拠は、どの歴史の書物でもあけて二三ページ読めばすぐに見つかるであろう。
 おとぎ話というものは、そういう人間世界の事実と方則を教える科学的な教科書である。そうして、どうするのが善《よ》いとか悪いとか、そんな限定的なモラールや批判や解説を付加して説明するにはあまりに広大無辺な意味をもったものである。それをいいかげんなほんの一面的なやぶにらみの注解をつけて片付けてしまうのではせっかくのおとぎ話も全く台無しになってしまう。
 おとぎ話はおとぎ話でよいのである。
 おとぎ話は物理学の教科書と同じく石が上から下へ落ちるという事実を教える。善くても悪くても落ちる石は下へ落ちて、上へは落ちない。この事実をどう利用するかはそれは利用する人の勝手になる。これを利用して米をつくこともできるが、また人殺
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