十年代の片田舎での出来事として考えるときに、この杏仁水の饗応《きょうおう》がはなはだオリジナルであり、ハイカラな現象であったような気がする。
 大学在学中に、学生のために無料診察を引受けていたいわゆる校医にK氏が居た。いたずら好きの学生達は彼に「杏仁水」という渾名《あだな》を奉っていた。理由は簡単なことで、いかなる病気にでもその処方に杏仁水の零点幾グラムかが加えられるというだけである。いつか診察を受けに行ったときに、先に来ていた一学生が貰った処方箋を見ながら「また、杏仁水ですか」と云ってニヤリとした。K氏は平然として「君等は杏仁水杏仁水と馬鹿にするが、杏仁水でも、人を殺そうと思えば殺せる」と云った。この場合では杏仁水が、陳腐なるものコンヴェンショナルなものの代表として現われたわけである。
 自分の五十年の生涯の記録の索引を繰って杏仁水の項を見ると、先ずこの二つの箇条が出て来る。
 近来杏仁水の匂のする水薬を飲まされた記憶はさっぱりない。久しく嗅《か》がなかった匂であったために、今このアイスクリームの匂の刺戟によって飛び出した追想の矢が一と飛びに三十年前へ飛び越したのかもしれない。
 不思議なことに、この一杯のアイスクリームの香味はその時の自分には何かしら清新にして予言的なもののような気がしたのである。

      四 橋の袂

 千倉で泊った宿屋の二階の床は道路と同平面にある。自分の部屋の前が橋の袂《たもと》に当っているので、夕方橋の上に涼みに来る人と相対して楽に話が出来るくらいである。
 宿の主人が一匹の子猫の頸をつまんでぶら下げながら橋の向う側の袂へ行ってぽいとそれをほうり出した。猫はあたかも何事も起らなかったかのようにうそうそと橋の欄干《らんかん》を嗅いでいた。
 女中に聞いてみると、この橋の袂へ猫を捨てに来る人が毎日のようにあって、それらの不幸なる孤児等が自然の径路でこの宿屋の台所に迷い込んで来るそうである。なるほど始めてここへ来たときから、この村に痩せた猫の数のはなはだ多いことに気が付いたくらいであるから、従って猫を捨てる人の多いのも当然であろうと思われた。
 猫を捨てに出た人が格好の捨場を求めて歩いて行くうちに一つの橋の袂に来たとすれば、その人はまたおそらく当然そこでその目的の行為を果たすに相違ない。これは何故であろうか。橋の袂は交通線上の一つの特異点《シンギュラーポイント》であって、歩行者の心のテンポにある加速度を与えるために自然に予定の行為への衝動を受けるのかもしれない。
 われわれの生活の行路の上にもまたこういう橋の袂がある。そうしてそこで自分の過去の重荷を下ろそうとして躊躇することがしばしばある。同様に国家社会の歴史の進展の途上にも幾多の橋の袂がある。教育家為政者は行手の橋の袂の所在を充分に地図の上で研究しておかなければならないと思う。
 弁慶が辻斬《つじぎり》をしたのは橋の袂である。鍋焼うどんや夜鷹《よたか》もまたしばしば橋の袂を選んで店を張った。獄門の晒首《さらしくび》や迷子のしるべ、御触れの掲示などにもまたしばしば橋の袂が最もふさわしい地点であると考えられた。これは云うまでもなく、橋が多くの交通路の集合点であって一種の関門となっているからである。従ってあらゆる街路よりも交通の流れの密度が大きいからのことである。
 この第二の意味における「橋の袂」のようなものもまた個人の生活や人類の歴史の上に沢山の例がある。十字軍や一九一四年の欧洲大戦のごときは世界人類の歴史の橋の袂であり、ポール・セザンヌと名づけられた一人の田舎爺《いなかじじい》は世界の美術史の上の橋の袂である。ニュートン、アインシュタイン、プランク等のした仕事もまた物理学史上のそれぞれの橋の袂であったとも云われる。
 われわれ個人にとっていちばん重大なのはわれわれの内部生活における、第一並びに第二の意味における橋の袂である。ここでわれわれは身を投げるか、弁慶の薙刀《なぎなた》の※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》となるか、夜鷹に食われるか、それともまた鍋焼うどんに腹をこしらえて行手の旅を急ぐかである。
[#地から1字上げ](昭和四年九月『思想』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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