、しかもそれはすぐに飽和される性質のものであるから、この感覚を継続させるためには結局週期的の変化が必要になると考えられる。
子供の時分、暑い盛りに背中へ沢山の灸《きゅう》をすえられた経験があるが、あの時の背中の感覚にはやはり「涼しさ」とどこか似通ったある物がある。これはここの仮説を裏書する。
こんな事を考えていたのであるが、今年の夏|房州《ぼうしゅう》の千倉《ちくら》へ行って、海岸の強い輻射《ふくしゃ》のエネルギーに充たされた空間の中を縫うて来る涼風に接したときに、暑さと涼しさとは互いに排他的《エキスクルーシヴ》な感覚ではなくて共存的な感覚であることに始めて気が付いたのである。暑いと同時に涼しいということあるいはむしろ暑い感じを伴うことなしに涼しさは感じ得られないということが一般的な事実であるのに、われわれは暑い涼しいという二つの言葉が反対のことのように思い込んでしまっていたために、こんな分り切ったことに今まで気が付かないでいたのではないか。ここでもわれわれは「言葉」という嘘つきに欺されていたのではないか。
「暑い」ということと寒暖計の示度の高いということとも、互いに関係はあるが同意義ではない。いつか新聞の演芸風聞録に、ある「頭の悪い」というので通っている名優の頭の悪い証拠として次のようなことを書いてあった。ある酷暑の日にその役者が「今日はだいぶ暑いと見える、観客席で扇の動き方が劇《はげ》しいようだ」と云ったというのである。これはしかしその役者の頭の悪い証拠でなくて良い方の破格の一例として取扱わるべきものであるかもしれない。暑い日の舞台の上は自然的の通風で案外涼しいかもしれないし、それでなくても、その役者が真面目に芝居をやっている限りその日が特に暑い日であるかないか分るはずがないのである。それは炭坑の底に働いている坑夫に、天気が晴れているのか暴《あ》れているのかが分らないのと同様である。それで扇の動き方でその日の暑さを知ったというのは、雁行《がんこう》の乱るるを見て伏兵を知った名将と同等以上であるのかもしれない。しかしおそらくこれはすべての役者に昔からよく知られたきわめて平凡な事実であるかもしれない。そうだとしてそれを今頃気が付いたとすれば、なるほどこれは頭の悪い証拠になるかもしれない。演芸風聞録の頭のいい記者はたぶんこの意味で書いたに相違ないのであるが、これに
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