がする。
 会場を出て、再び天幕張りの工事を仰ぎ見ながらこんな事を考えた。間に合せものばかりのこの竹の台に、あの童女像ばかりはどうも間に合せでない。時代や流行とは無関係に永遠に伝えらるべき性質のものではないだろうか。

 谷中《やなか》から駒込《こまごめ》までぶらぶら歩いて帰る道すがら、八百屋の店先の果物や野菜などの美しい色が今日はいつもよりは特別に眼についた。骨董屋の店先にある陶器の光沢にもつい心を引かれて足をとめた。
 とある店の棚の上に支那製らしい壷のようなものがいくつか並んでいるのをしばらく立止って眺めていた。その内の一つを取り下ろして値段をきいてみると六円だという。骨董品というほどでなくても、三越等の陳列棚で見る新出来の品などから比較して考えてみても、六円というのはおそらく多くの蒐集者にとっては安いかもしれない。しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いでもとの棚へ返した。
 その下の棚に青い釉薬《うわぐすり》のかかった、極めて粗製らしい壷が二つ三つ塵に埋れてころがっているのを拾い上げて見た。実に粗末なものではあるが、しかし釉《うわぐすり》の色が何となく美しく好もしいので試しに値を聞くと五拾銭だという。それでは一つ貰いましょうと云って、財布を取り出すために壷を一度棚に返そうとする時に、どうした拍子か誤ってその壷を取り落した。下には磁器の堅いものがゴタゴタ並んでいたので、元来|脆《もろ》いこの壷の口の処が少しばかり欠けてしまった。私は驚いて「どうもとんだ粗相をしました」と云うと、主人は、「いや、どう致しまして、一体この置き所も悪いものですから」と云った。そして、「このつれ[#「つれ」に傍点]ならまだいくらでもありますから、どうぞいいのを御持ち下さい」という。
 一体私がこの壷を買う事に決定してから取り落してこわしたのだから、別に私の方であやまる必要もなければ、主人も黙って破片を渡せばいいのではなかったかと、今になってみると考えられもする。これはどちらが正当だか私には分らない、とにかくその時は全く恥じ入って、つい無意識にあやまってしまった訳である。
 ともかくも代価の五拾銭を払おうとすると、どうしても主人が受取ろう云わない。困り入ってどうしたものかと考えながらその解釈を捜すような心持で棚の上を見ると、そこに一つの白釉のかかった、少し大きい花瓶が目についた。これも粗末ではあるが、鼠色がかった白釉の肌合も、鈍重な下膨《しもぶく》れの輪郭も、何となく落ちついていい気持がするので、試しに代価を聞いてみると七拾銭だという。それを買う事にして、そして前の欠けた壷と二つを持って帰ろうとするが、主人はそれでも承知してくれない。もしその欠けたのの特別な色合でも何か調べる必要があるのなら持って行ってもいいが、もう一つ欠けないのもぜひ持って行けというのである。
 それでは私が困るからと云ってみたが、「いえ、とんでもない事です」と云ってなかなか聞き入れてはくれない。
 結局私は白い花瓶と、こわれない別の青い壷との二点をさげておめおめと帰って来た。
 主人は二つの品を丁寧に新聞紙で包んでくれて、そしてその安全な持ち方までちゃんと教えてくれた。私はすっかり弱ってしまって、丁度|悪戯《いたずら》をしてつかまった子供のような意気地のない心持になって、主人の云うがままになって引き下がる外はなかったのである。
 帰る途中で何だか少し落着かない妙な気がした。軽い負債でも背負わされたような気がしてあまり愉快でなかった。一体これはどうすれば善かったのだろう。代価を強《し》いて取らせて破片だけを持って帰るのもあまりにぎごちない窮屈な気がする。二個分の代価を払って、破片と、そうして破《わ》れないもう一つをさげて来るのも何だか殊更で、そこに説明の出来ない無理があるように思われる。それかと云って自分のした事はどうしても正当ではない。
 仮りにこれが五拾銭でなくて五拾円か五百円の壷であったら、どうだろうという事を、いささか臆病な心持で考えてみた。理窟は同じでも、実際は少しちがうような気がした。この方だと却って事柄がずっと簡単にはこびそうな気もした。正当不正当の問題が、他の利害の問題のために蝕《おか》されて変って来そうに思われたのである。この現在の場合はどうでもいいとしたところで、逆に吾々が何か重大な問題にぶつかった場合に、それを、本質的にそれと同様な、しかし通例|些細《ささい》なと考えられる問題に「翻訳」して考えてみなければならない場合も随分ありはしまいか、そうしてみて始めて問題が正当な光に照らされるような事がありはしまいか。こんな事も思ってみたのである。
 ドイツの下宿屋で、室に備え付けの洗面鉢を過《あやま》ってこわしたある
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