うな感じもする。尤《もっと》この頃自分で油絵のようなものをかいているものだから、色々の人の絵を見ると、絵のがらの好き嫌いとは無関係な色々のテクニカルな興味があるのである。実際どれを見ても、当り前な事だが、みんな自分よりは上手な人ばかりである。しかしその上手な点を「頭」へ矢つぎ早に受け込んで、そして一々感服する方がとかく主になってしまって、何かしらしみじみ[#「しみじみ」に傍点]と「胸」に滲み込んでくるような感じが容易には起りにくい。
 どうもみんな単にうまい絵[#「うまい絵」に傍点]を描く事ばかり骨を折っているのではないかという疑いが起って来る。それならば大概の絵はそれぞれの意味でうまいところがあるという事が自分のようなものでも分る。一体自分の求めているようなしみじみとした絵は、こういう処では始めから得られないにきまっているのかもしれない。
 おしまいの方の部屋の隅に、女の子の小さな像が一枚かかっていた。童女は黒地に赤い縞《しま》の洋服を着て、右の手に花を一輪もっている。一目見ただけで妙な気がした。これはこの会場にふさわしくないほど、物静かな、しんみりとした気持のいい絵であると思った。
 この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならないような、一口ですぐ云ってしまわれるような趣向やタッチが、少なくも私には目に立たない。それだけ安易な心持で自然に額縁の中の世界へ這入って行けるように思う。じっと見ていると、何かしら嬉しいような有難いような気がして来る。ほんとうに描いた人の心持が、見ている自分の心に滲み込んで来るように思う。
 どういう訳だか分らないが、あの右の手の何とも名状の出来ない活きた優雅な曲線と鮮やかに紅い一輪の花が絵の全体に一種の宗教的な気分を与えている。少し短くつまった顔の特殊なポオズも、少しも殊更《ことさら》らしくなくてただ気高いような好い心持がするばかりである。何かしら人の子ではなくて何かの菩薩《ぼさつ》のような気がする。
 日本人としての自分にはベラスケズのインファンタ、マリア、マルゲリタよりもこの方がいい。デュラアよりもホルバインよりもこの方がいい。
 専門家に云わせると、あるいは右の頬の色が落着かないとか、手が小さ過ぎるとか、色々の批評があるかもしれないが、私にはそんな事は問題にならない。何かなしにこれが本当の芸術というものだろうという気
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング