平野を見おろした景色には特有な美しさがある。「せみ鳴くや松のこずえに千曲川。」こんな句がひとりでにできた。
帰りに沓掛《くつかけ》の駅でおりて星野《ほしの》行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してまもなく横合いからはげしく何物かが衝突したと思うと同時に車体が傾いて危うく倒れそうになって止まった。西洋人のおおぜい乗った自用車らしいのが十字路を横から飛び出してわれわれのバスの後部にぶつかったのであった。この西洋人の車は一方の泥《どろ》よけがつぶれただけですみ、われわれのバスは横腹が少しへこんでペイントがはがれただけで助かった。肥《ふと》った赤ら顔の快活そうな老西洋人が一人おり立って、曲がった泥よけをどうにか引き曲げて直した後に、片手を高くさしあげてわれわれをさしまねきながら大声で「ドモスミマシェン」と言って嫣然《えんぜん》一笑した。そうして再びエンジンの爆音を立てて威勢よく軽井沢《かるいざわ》のほうへ走り去ったのであった。
九月初旬三度目に行ったときには宿の池にやっと二三羽の鶺鴒《せきれい》が見られた。去年のような大群はもう来ないらしい。ことしはあひるのコロニーが優勢になって鶺鴒の領域《テリトリー》を侵略してしまったのではないかと思われる。同じような現象がたとえば軽井沢のような土地に週期的にやって来る渡り鳥のような避暑客の人間の種類についても見られるかどうか。材料が手に入るなら調べてみたいものである。
[#地から3字上げ](昭和九年十二月、文学)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1993(平成5)年10月15日第61刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング