ろあることに気がつく。
 科学の研究に従事するものがある研究題目を捕えてその研究に取りかかる。何かしらある見当をつけて、こうすればこうなるだろうと思って実験を始める。その場合に、もし研究者の自我がその心眼の明を曇らせるようなことがあると、とんでもない失敗をする恐れがある。そうでない結果をそうだと見誤ったり、あるいは期待した点はそのとおりであっても、それだけでなくほかにいろいろもっと重大な事実が眼前に歴然と出現していても、それには全く盲目であって、そのために意外な誤った結論に陥るという危険が往々ある。それで科学者は眼前に現われる現象に対して言わば赤子のごとき無私無我の心をもっていなければならない。止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消えるような機微の現象を発見することは不可能である。それには心に私がなく、言わば「心の手首」が自由に柔らかく弾性的であることが必要なのではないか。
 だれであったかある学者が次のようなことを言っていた。「自然の研究者は自然をねじ伏せようとしてはいけない。自然をして自然のおもむく所におもむかしめるように導けばよい。そうして自然自身をして自然を研究させ、自然の神秘を物語らせればよい」そうしてわれわれは心を空虚にして、その自然の物語に耳を傾け、忠実なる記録を作ればよいのであろう。これを自分の現在の場合の言葉に翻訳すると、「研究の手首を柔らかくして、実験の弓で自然の弦線の自然の妙音を引き出せばよい」とも言われるであろう。研究者によって先天的の手首の個性の差異から来る手つきの相違はあっても、結局ほんとうの音を出せばよいのではないか。
 子供を教育するのでも、同じようなことが言われる。これについては今さら言うまでもなく、すでに昔から言いふるされたことである。教育者の手首が堅くてはせっかくの上等な子供の能力の弦線も充分な自己振動を遂げることができなくて、結局|生涯《しょうがい》本音を出さずにおしまいになるであろう。
 政治の事は自分にはわからない。しかし歴史を読んでみると、為政者が君国のために、蒼生《そうせい》のためにその国の行政機関を運転させるには、ただそ
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