弦の振動状態に反応して、ちょうど弦の要求するエネルギーを必要にしてかつ有効な位相において供給しなければならない。この微妙な反応機巧は弦と弓とが一つの有機的な全系統を形成していて、そうして外部からわがままな無理押しの加わらない事が緊要である。しかし弓の毛にも多少のむらがあるのみならず、弓の根もとに近いほうと先端に近いほうとではいろいろの関係がちがうから、そういう変化にも臨機に適当に順応して自由な弦の運動を助長し一様に平滑によい音を出すためには、ただ機械的に一定圧力一定速度で直線的に弓を動かすだけではいけないであろう。それには、もっとデリケートな調節器官が入用であって、その大切な役目を務めるのが弓を持った演奏者の手首であるらしい。普通の初等物理学教科書などには弦が独立した振動体であるようなことになっているが、あれも厳密に言えば弦も楽器全体も弓も演奏者の手もおよそ引っくるめた一つの系統として考えるほうがほんとうだと自分には思われる。そうして音の振動数は主として弦で決定するが、音色を決定する因子中の最も主要なものが手首の運動をつかさどるところの筋肉の微妙な調節にあるように思われるのである。
このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩《しかん》した状態になっていて、しかもいかなる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。
この手首の自由の問題は弦楽器のボーイングに限らずその他のいろいろな技術の場合にも起こって来るからおもしろい。
玉突きをするのにキュー尻《じり》のほうを持つ手の手首を強直しないよう自由に開放することが必要条件である。手首が硬直凝固の状態になっていてはキューのまっすぐなピストン的運動が困難であるのみならず、種々の突き方に必要なキューの速度加速度の時間的経過を自由に調節することも不可能であるように見える。特に軽快な引き球《だま》などのできるとできないは主としてこの手首の自由さに係わるように思われるのである。
ゴルフについては自分自身には少しの体験も持ち合わせないのであるが、T氏の話によるとあれのクラブの使用にもやはり自由なる手首の問題が最も大切だということになっているそうである。
いわゆるスモークボールを飛ばして打者を眩惑《げんわく》する名投手グローブの投球の秘術もや
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