轤黷ネければならない。克己は全ての関係中にあつて真の恋愛及び健全なる親としての一条件として教へられなければならない。併しながら自棄は恋愛に於ける完全なる幸福が個人の精神及び一般の人道の成長に資する時説かれてはならないのである。自己離婚の権利も結婚せざる母権も全くこの道徳的見解から批判せられなければならない。結婚の有無に関せず母としての無責任は常に罪悪である。母たるの責任は結婚の如何を問はず常に神聖である。離婚の自由は種々なる感情及び事情が母としての道に横はる様々の障害を除くことは出来ない。併しながらそれはかの他人のために犠牲たることは自己の精神を生かすの道にして、他人を犠牲にするは精神を殺すことである。故に自己の都合よき様に犠牲の問題を決定するの個人は社会に於て無価値なるものであるといふ極めて不合理なる説を打破することが出来る。
 不幸なる結婚に於ては結婚者の一人が他を犠牲に供さなければならないといふことは偏見なき反省の示す処である。行かんとする人は彼を止めんと欲する人を犠牲にする。又止めらるゝ人は彼を制抑する人の犠牲となるのである。時としては他を犠牲とするより自己を犠牲となすことの更に罪の大なるものがある。時に又その反対の真実である時もある。而して若し吾人はその罪の大小をば何人が定むるかを訊ねらるゝ時は左の如く答へる。――それは義務に於けると等しく困難なる争ひを決定しなければならない個人の良心である。吾人のとるべき道は唯だ二つある、天主教的結婚か或は自己の責任を全うする自由結婚かである。
 その他の諸問題に於てもこの疑問に対する答は各自の抱く人生観に準じられなければならない。
 吾人は人間がある権威の命令に対して自己の理性や意志や良心を曲げなければならないと信ずることも出来るし、屡々経験を反復し、力の様々なる試練を経て自己の道を発見することも出来ると信ずる。又服従は更らに高き修養に達するの唯一の道であると信ずることも出来れば反抗が服従と等しく要素的《エッセンシャル》なものであると信ずることも出来る。又肉情的本能は陥穽でもあり、障害でもあると信ずることが出来ると同時に理性や良心と同じく人生の向上的運動を指導するものであると信ずることも出来る。若し吾人が後の意見を持するとすれば性的生活に於て正不正成長衰退自己の犠牲及び他人の犠牲といふことが人生の他の局面に於けるより一
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