少し歩いているうちにはどこか洗える処があるかもしれないと思いながら、そのまま土手を上がった。白く乾き切った道が、気持よく走っている。けれど、一と足そこに踏み出すと思わず私はそこにしゃがんだ。道は小砂利を敷きつめてあって、その上を細かい砂が覆うている。むき出しにされて、その上に冷たさでかじかんだ足の裏には、その刺戟が、とても堪えられなかった。といって、今泥の中から抜き出したばかりの足を思い切って草履の上に乗せることもできなかった。
「おい、そんなところにしゃがんでいてどうするんだい。ぐずぐずしていると日が暮れてしまうじゃないか。」
 そういってせき立てられる程、私はひしひし迫ってくる寒さと、足の痛さに泣きたいような情なさを感ずるのだった。それでも、両側の草の上や、小砂利の少ない処を撰るようにして、やっとあてにした場所まで来て見ると、水は青々と流れていても、足を洗うような所はなかった。私はとうとう懐から紙を出して、よほど乾いてきた泥をふいて草履をはいた。二人はやっとそれで元気を取返して歩き出した。
 日暮れ近い、この人里遠い道には、私達の後になり先になりして尾いてくる男が一人いるだけで、他には人の影らしいものもない。空はだんだんに低く垂れてきて、いつか遠くの方は、ぼっと霞んでしまっている。遠く行く手の、古河の町のあたりかと思われる一叢の木立の黒ずんだ蔭から、濃い煙の立ち昇っているのが、やっと見える。風はだんだんに冷たくなって道の傍の篠竹の葉のすれ合う音が、私達の下駄の音と、もつれあってさびしい。二人はS家の様子や主人の話など取りとめもなく話しながら歩いた。
「あの主人は大分しっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか。」
「ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが――あそこの主人みたいなのは残っている連中の内でも少ないんだろう。皆、もう大抵はあのじいさん見たいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな。」
「でも、それも惨めな訳ね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人達の要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね。」
「もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう! 一緒に行った男なんかもあれで、Sの家を馬鹿にしてるんだよ、Sを批難したりなんかしてたじゃないか。」
「そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば本当に呑気なものだわ。」
「そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、直ぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ。」
「そういえばそうね。」
「どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい? もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことが分ったろう? Sがいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね。」
「沢山だわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの。」
「これで、町子ひとりだと、もっとよかったんだね。」
「沢山ですったら、これだけでも沢山すぎるくらいなのに。」
 長い土手の道はいつか終わりに近づいていた。振り返ると、今沈んだばかりの太陽が、低く遙かな地平に近い空を、僅かに鈍い黄色に染めている。他は一体に、空も、地も、濃い夕暮の色に包まれている。すべての生気と物音をうばわれたこの区切られた地上は、たった一つの恵みである日の光さえ、今は失われてしまった。明日が来るまではここはさらに物凄い夜が来るのだ。黄昏れてくるにつけて、黙って歩いているうち、心の底から冷たくなるような、何ともいえない感じに誘われるので、道々私は精一杯の声で歌い出した。声は遮ぎるもののないままに、遠くに伝わってゆく。時々葦の間から、脅かされたように群れになった小鳥が、あわただしい羽音をたてて飛び出しては、直ぐまた降りてゆく。
 古河の町はずれの高い堤防の上まで帰って来たとき、町の明るい灯が、どんなになつかしく明るく見えたか! 私はそれを見ると、一刻も早く暖い火の傍に、その
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