る愛を拒否することは、もちろん私にとって苦痛でないはずはない。しかしそれはまだ忍べる。彼に対する信頼をすてることは、同時にせっかく見出した自分の真実の道を失わねばならぬかもしれない。それは忍べない。私はどうしても、どうなっても、あくまで自分の道に生きなければならない。
そうして、私はすべてを忍んだ。本当に体中の血が煮えくり返る程の腹立たしさや屈辱に出会っても、私は黙って、おとなしく忍ばねばならなかった。それはあらゆる非難の的となっている、私の歩みには、必然的につきまとう苦痛だったのだ。そして、私が一つ一つそれを黙って切り抜けるごとに、卑劣で臆病な俗衆はいよいよ増長して調子を高める。しかし、たとえ千万人の口にそれが呪咀されていても、私は自身の道に正しく踏み入る事のできたのは、何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。
谷中の話を聞いた当座の感激は、今の私にはもうまったくないといってもいい。しかし、その感激は知らず知らずのうちに俗習と偏見の生活に巻き込まれ去ろうとする私を救い出した。谷中村と云う名は、今はもう忘れようとしても忘れられぬ程に、私の頭に刻み込まれている。もちろん、山岡と私の間には、その話は折々繰り返された。一度はその廃村の趾を見ておきたいという私のねがいにも彼は賛成した。
ちょうど、四五日前の新聞の三面に、哀れな残留民がいよいよこの十日限りで立ち退かされるという十行ばかりの簡単な記事を私は見出した。すぐに、私の頭の中には、三四年前のM氏の話が思い出された。
「もういよいよこれが最後だろう。」
という山岡の言葉につけても、ぜひ行って見たいという私の望みは、どうしても捨てがたいものになった。とうとう、その十日が今日という日、私は山岡を促し立てて、一緒に来て貰ったのであった。
七
行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。それはこの何里四方という程な広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見るかげもない残骸を、いたましくさらしている。しかも、その一本の枯れた木に、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めているような感じさえする。
行くほど空の色はだんだんに沈んでき、沼地はどこまでともしらず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。二人の話がとぎれると、私達の足元からもつれて起こる草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さがひとりでに浮かんでくるのであった。
「どうしたい?」
「まだかしら、ずいぶん遠いんですね。」
「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足をひきずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?」
「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの、こんな処、とても私達だけで来たんじゃ解りませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ。」
「ああ、これじゃちょっと分らないね。どうだい、一人でこんなに歩けるかい。今日は僕こないで、町子ひとりをよこすんだったなあ、その方がきっとよかったよ。」
山岡はからかい[#「からかい」に傍点]面にそんなことをいう。
「歩けますともさ。だって、今そんなことをいったってもう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ。」
私はそういった。けれど山岡の冗談は、私には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、私は彼に向って甘えたり、ふざけたりして来た。彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、私はひとりでに顔が赤くなるように感じた。その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、私の内心はすっかり悄気てしまっていた。
「何しに来た?」
そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、彼もきてくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら? 二人で歩いていてさえあまりにさびしすぎるこんな道を――。私は黙った。急にあたりの景色がいっ
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