ろう。」
「だけど、人間の同情なんてものは、全く長続きはしないものなのね。もっとも各自に自分の生活の方が忙しいから仕方はないけれど。でも、この土地だって、そのくらいにみんなの同情が集まっている時に、何とか思い切った方法をとっていれば、どうにか途はついたのかもしれないのね。」
「ああ、これでやはり時機というものは大切なもんだよ。ここだってむしろ[#「むしろ」に傍点]旗をたてて騒いだ時に、その勢でもっと思い切って一気にやってしまわなかったのは嘘だよ。こう長引いちゃ、どうしたって、こういう最後になることは解り切っているのだからね。」
 けれどとにかく世間で問題にして騒いだ時には、多くの人に涙をわかされた土地なのに、それが何故に何の効果も見せずに、こうした結末に来たのだろう? よそ事としての同情なら続くはずもないかもしれない。しかし、一度はそれを自分の問題として寝食を忘れてもつくした人が、もう思い出して見ないというようなことが、どうしてあり得るのであろう? 私はこの景色を前にして、色々な過ぎ去った話を聞いていると、最初に私が、その事件に対して持った不平や疑問が、新たにまき返ってくるのであった。

        三

 私が初めてその谷中村という名を聞き、その事件について知り得たのは、三年か四年も前のことだ。その頃私の家に一番親しく出入していたM夫妻によって、初めて私はかなりくわしく話して聞かされた。
 ある日――それはたしか一月の寒い日だったと覚えている――M夫妻は、いつになく沈んだしかしどこか緊張した顔をして門をはいってきた。上がるとすぐ例のとおりに子供を抱き上げてあやしながら、ひとしきりよろこばしておいて、思い出したように傍にいた私に、明日から二三日他へゆくかもしれないといった。
「何方へ?」
 何気なしに私はそう尋ねた。
「え、実は谷中村までちょっと行ってきたいと思うのです。」
「谷中村って何処なんです。」
「ご存じありませんか、栃木ですがね。例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。」
「へえ、私ちっとも知りませんわ、その鉱毒問題というのも――」
「ああそうでしょうね、あなたはまだ若いんだから。」
 そう云ってM氏は妻君と顔見合わせてちょっと笑ってからいった。
「T翁という名前くらいはご存じでしょう?」
「ええ、知ってますわ。」
「あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件で問題になった土地なんです。」
「ああそうですか。」
 私にもそういわれれば何かの書いたものでT翁という人は知っていた。義人とまでいわれたその老翁が、何かある村のために尽したのだということも朧ろ気ながら知っている。しかしそれ以上のくわしい事は何も知らなかった。
「実は今日その村の人が来ましてね、いろいろ話を聞いてみると実にひどいんです。何だか、とてもじっとしてはいられないので一つ出かけて行って見ようと思うのです。」
 M氏は急に、恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそういって黙った。私には何の事だかいっさい分らなかったけれど、不断何事にも真面目なM氏のひと通りのことではないような話の調子に、まるで外れているのも済まぬような気がして、さぐるようにして聞いた。
「その村に、何かあったのですか?」
「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ。」
「え、どうしてですか?」
「話が少しあとさきになりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解らないでしょうけれど。」
 こういってM氏はまず鉱毒問題というものから話しはじめた。
 谷中村は栃木県の最南端の、茨城と群馬と接近した土地で、渡良瀬という利根の支流の沿岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山地方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼした事がある。それが問題となって、長い間物議の種になっていたが、政府の仲介で鉱業主と被害民の間に妥協が成立して、ひとまずそれは片附いたのだ。しかし水源地の銅山の樹が濫伐されたために、年々洪水の被害が絶えないのと、その洪水のたびに、やはり鉱毒が濁水と一緒に流れ込んでくるので、鉱毒問題の余炎がとかく上りやすいので、政府ではその禍根を絶つことに腐心した。
 水害の原因が水源地の濫伐にあることは勿論であるが、栃木、群馬、茨城、埼玉等の諸県にまたがるこの被害のもう一つの原因は、利根の河水の停滞ということにもあった。本流の河水の停滞は支流の渡良瀬、思等の逆流となって、その辺の低地一帯の氾濫となるのであった。そこでその河水の停滞をのぞくために、河底をさらえるということ、その逆流を緩和さすための貯水池をつくることが最善の方法として選
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