とが出来ずに暮らしている人をたくさん知っています。そして、私はたとえ自分がどれほどの悪名を被せられようとも正しく生きてきた事をよろこんでいます。
よく、結婚して、性格の相違からとか、趣味の違いからとか、周囲の事情のためとかその他いろんな理由で結婚生活が面白くないという愚痴を聞きます。しかしそんな事も要するに、結婚前の考えが足りないのです。そんな事は当然結婚前に知っていなければならないはずなのです。
けれども、今迄の若い娘達はたいてい若い男に会って、それほど冷静に人間を観るなどという教育はされていません。そしてまた、よほど、利口な人達でも、少しでも好意を持ち出したら、二人の間に不利益な、または不快な、と思われる事柄にはなるべく触れまいとします。これが普通の傾向なのです。一方からいえば無理もない感情ですが、この感情をぬけ得ない間は要するに青年男女の交際というものも実際に結婚の準備としては大した効果はあるまいと私は思います。
私はTと別れる時、人間の各自持っている差異が恐い程よくわかりました。ちょっとした気質の差異でさえも、どんな大きな破綻を持ってくるかと考えました時には本当に心細くなりました。けれども一方には、みんなそれぞれのパアトナアを持って生活しているのです。そして第二の、現在の生活から私の学んだものは、たとえ結婚した男と女との間にしてもお互いの生活に立ち入らない事がいちばん必要だという事です。他の人々よりは愛し合うからといってお互いの生活に立ち入り勝手という法はありません。私共は深く理解し合うと同時に、その自由はあくまで尊重しなければなりません。all or nothing という事は一時よくいわれていましたが、これは最も利己的な考え方です。それは人間に無理に重荷を背負わせ、また苦しめるものです。
私共は、いつも私共自身でなければなりません。久しい因習は男が女を所有するというような事を平気にしています。女もまたこの頃の新しい思想に育てられた人々でさえも、自分の気に入った男でさえあれば、よろこんで所有されます。これは恥ずべき事です。
婦人の自覚という言葉もずいぶんいい古されました。婦人運動の初期にあってはこの自覚という言葉は、ただ結婚の際に親権に反抗する事にのみ用いられたといっても過言ではないような事実を示しました。そして今もやはりその続きです。
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