ズグズ起きている。でこれから何かまた少しものをいって見ようと思う。
明日あたりまた手紙が来ることだろうと思うが――俺がこないだ書いた手紙はかなり向う見ずなものだったなあ、まあ、しかし俺はあんなことが平気で書けることを自分では頼もしいと思っている。俺は口に出して実はいってみたいといつでも思っているのだがなかなか口はいうことをきかなくて。三日の手紙はかなり痛快な気持ちを抱いて読み終わった。大分孤独をふりまわしたな、人間は孤独なものよ――深く突込んで思案したら、何人でも救われることのできない孤独の淋しさにおそわれるだろう。しかし世の中にはいろいろなものがあってそれを暫くでもごまかしてくれる。宗教、芸術、酒、女(女からいえば男)などがそれだ。無論各自の程度によって求むる種類と分量というようなものは異っていくだろうが、とにかくそんなものなしには一日も生きていくことはできないのだ。
血肉の親子兄弟――それがなんだ。夫婦朋友それがなんだ、たいていはみな恐ろしく離れた世界に住んでいるじゃないか、皆恐ろしい孤独に生きているじゃないか。しかしたまたまやや同じような色合の世界に住んでいる人達が会って、そうしてできるだけお互いの住んでいる世界を理解しようと務めてかなり親しい間柄を結んでいくことがある。それは実に僥倖といってもいいくらいだ。もっとも理解という意味にはいろいろある。二人が全然相互に理解するというようなことはまあまあないことだと思う。またできもしないだろう。ただ比較的の意にすぎない。
俺は筆をとるとすぐこんな理屈っぽいことをしゃべってしまうがこれも性分だから仕方ない許してもらおう。俺は汝を買い被っているかもしれないがかなり信用している。汝はあるいは俺にとって恐ろしい敵であるかもしれない。だが俺は汝のごとき敵を持つことを少しも悔いない。俺は汝を憎むほどに愛したいと思っている。甘ったるい関係などは全然造りたくないと思っている。俺は汝と痛切な相愛の生活を送ってみたいと思っている。もちろんあらゆる習俗から切り離された――否習俗をふみにじった上に建てられた生活を送ってみたいと思っている。汝にそこまでの覚悟があるかどうか。そうしてお互いの『自己』を発揮するために思い切って努力してみたい。もし不幸にして俺が弱く汝の発展を妨げるようならお前はいつでも俺を棄ててどこへでも行くがいい。
[#地から3字上げ](八日)
おととい[#「おととい」に傍点]の晩は酒を飲んでいる上にかなり疲れていたものだから二三枚書くともうたまらなくなってきて倒れてしまった。昨夜も書こうと思ったのだが汝の手紙がきてからと思ってやめた。二日ばかりおくれてもやっぱり気になるのだ。今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきていたのでやっと安心した。今夜ももう例によって十二時近いのだが俺はどうも夜おそくならないと油がのって来ないのでなにか書く時には必ず明方近くまで起きてしまう。それに近頃は日が長くなったので晩飯を食うとすぐ七時半頃になってしまう。俺は飯を食うとしばらく休んで、たいてい毎晩のように三味線を弄ぶか歌沢をうたう。あるいは尺八を吹く。それから読む。そうするとたちまち十時頃になってしまう。なにか書くのはそれからだ。今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。俺はあえて書かされたという。Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だってこの忙しいのに、そうそうあっちこっちのお相手はできない。それに無意味な言葉や甘ったるい文句なぞを並べていると、いくら俺だって馬鹿馬鹿しくって涙がこぼれて来らあ。人間という奴は勝手なものだなあ。だがそれが自然なのだ。同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。だが俺等の羽の色が黒いからといって、全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないという理屈はない。
[#地から3字上げ](十三日)
学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」という電報がきたのは十日だと思う。俺はとうとうやったなと思った。しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることもできなかった。俺は落ち付いた調子で多分東京へやってくるつもりなのでしょうといった。校長は即座に『東京へ来たらいっさいかまわないことに手筈をきめようじゃあありませんか』といかにも校長らしい口吻を洩らした。S先生は『知らん顔をしていようじゃありませんか』と俺にはよく意味の分らないことをいった。N先生は『とにかく出たら保護はしてやらねばなりますまい』といった。俺は『僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよって来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです』とキッパリ断言した。みんなにはそれがどんなふうに聞えたか俺は解らない。女の先生達はただ呆れたというような調子でしきりに驚いていた。俺はこうまで人間の思想は違うものかとむしろ滑稽に感じたくらいだった。S先生はさすがに汝をやや解しているので同情は十分持っている。だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしているのだ。俺はいろいろ苦しい思いを抱いて黙っていた。その日帰ると汝の手紙が来ていた。俺は遠くから客観しているのだからまだいいとして当人の身になったらさぞ辛いことだろう、苦しいことだろう、悲しいことだろうと思うと、俺はいつの間にか重い鉛に圧迫されたような気分になってきた。だが俺は痛烈な感に打たれて心はもちろん昂っていた。それにしても首尾よく逃げおうせればいいがと、また不安の念を抱かないではいられなかった。俺は翌日(即ち十二日)手紙を持って学校へ行った。もちろん知れてしまったのだから秘す必要もない。そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明らかにするつもりだったのだ。で、俺は汝に対してはすこしすまないような気はしたが、S先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
[#地から3字上げ](十四日)
昨夜少し書くつもりだったのだがまた疲れが出てしまいのほうは何を書いているのだか解らなくなった。俺は意気地のないのに自分で呆れてしまった。
俺は今帰ってきた。五時頃だ。汝の手紙を読むと俺はすぐ興奮してしまった。俺はこんな手紙なぞ書くのがめんどくさくってたまらないのだ。だが別に仕方もないのだから無理に激している感情を抑えつけて書くことにしよう。話を簡単にはこぶ。
十二日、即ち汝が手紙を出した日に永田という人から極めて露骨なハガキがまいこんだ。『私妻藤井[#「藤井」は底本では「蔵井」、412−13]登志子』という書き出しだ。そうして多分上京したろうからもし宿所が分ったらさっそく知らしてくれ、父と警官同道の上で引きとりに行くという文句だ。さらに付加えて自分の妻は姦通した[#「姦通した」に傍点]形跡があるとか同志と固く約束したらしいということが書いてあった。妻に逃げられたのだからそんなふうに考えるのは無理もない話だ。俺は汝が去年の夏結婚したという話は薄々聞いていた。しかしそれがどんな事情のもとになされたものかは俺には無論解らない。そうしてもちろん汝自身から聞いたのでないから半信半疑でいたのだ。だが俺はいろいろとできるだけ想像は廻らしていた。しかし永田という人はとにかく『私妻』とかいてきたのだから俺は形式の結婚はとにかくやったものと認めない訳にはゆかない。しかし俺は無論そんなことは眼中にはないのだ。俺はただ汝が帰国する前になぜもっと俺に向って全てを打ち明けてくれなかったのだとそれを残念に思っている。少なくとも先生へなりと話しておけば、俺等はまさか『そうか』とその話を聞きはなしにしておくような男じゃあない。それは女としてそういうことは打ち明けにくかろう。しかしそれは一時だ、汝が全てを打ち明けないのだからどうすることもできないじゃあないか。しかし問題はとにかく汝がはやく上京することだ。どうかして一時金を都合して上京した上でなくってはどうすることもできない。俺は少なくとも男だ。汝一人くらいをどうにもすることができないような意気地なしではないと思っている。そうしてもし汝の父なり警官なりもしくは夫と称する人が上京したら、逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。俺は物を秘かにすることを好まない。九日付の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠して事をするのが嫌だからだ。姦通などという馬鹿馬鹿しい誤解をまねくのが嫌だからだ。イザとなれば俺は自分の立場を放棄してもさしつかえない。俺はあくまで汝の味方になって習俗打破の仕事を続けようと思う、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。とにかく上京したらさっそく俺の所にやってこい。かまわないから、俺の家では幸にも習俗に囚われている人間は一人もいないのだから。母でも妹でもずいぶんわけはわかっている。そうして俺を深く信じているのだ。もちろん汝に対して深い同情?Lしている。遠慮をせずにやってくるがいい。だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱ができないと思ったら、いつでもわきに行くがいい。俺は全ての人の自由を重んずる。御勝手次第たるべしだ。それにN君も心配しているのだから、それにS先生だって汝の理解出来ないような人ではなし、なんでも永田という人のところに「あの女はとても駄目だから、あきらめたほうがいい」というような手紙を送ったそうだ。とにかく東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあそこが汝の尊いところなのだ。今に落ち付いたら[#「落ち付いたら」は底本では「落付ちいたら」]詳しく出奔の情調でも味わうがいい。俺は近頃汝のために思いがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮らしている。ずいぶん単調平几な生活だからなあ。
上京したらあらいざらい真実のことを告白しろ、その上で俺は汝に対する態度をいっそう明白にするつもりだ。俺は遊んでいる心持ちをもちたくないと思っている。
なにしろ離れていたのじゃ通じないからな、出て来るにもよほど用心しないと途中でつかまるぞ、もっと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。
[#地から3字上げ](十五日夜)
[#ここで字下げ終わり]
いろいろなすべての光景が一度になって過ぎていく。今までまるでわからなかった国の方のさわぎもいくらか分るような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんでくる。
ここから上京するまでの間に見つかるなどいうことも今まで少しも考えなかったのに、急に不安に胸を波立たせたりしながら、読み終わって登志子はしばらく呆然としていた。
「結婚した」といわれるのが登志子には涙の出るほど口惜しかった。しかしやはりしたといわれても仕方がなかった。登志子自身の気持ちではどうしても結婚したということは考えられないのだけれど――彼女はその時から今日を予想してそれが一番自分に非道な強い方をした者に対する復讐だと思った。しかし今自分の気持のどこをさがしてもしかえし[#「しかえし」に傍点]をしてやっているのだというような快さはさらになくて、かえって自分が苦しんでいるように思われる。登志子は手紙を読んでしまうと、いろいろな感情が一時にかきまわされてときの声をあげて体中を荒れ狂うように思われた。だんだんそれが静まるにつれて考えは多く光郎と自分の上にうつっていった。そうして目はいつか姦通、という忌わしい字の上に落ちていった。
「本当にそうなのかしら」
考えると登志子は身ぶるいした。あの当時登志子の胸は悲憤に炎えていた。何を思うひまも行なう間もなかった。「惨酷なその強制に報いるためには?」という問題ばかりが彼女の頭の中にたった一つはっきりした、一番はっきりしたそしてその場合におけるたった一つの問題として与えられたのだ。もちろんこうした男の愛をそんなにもはやく受けようとは思いもよらなかったのだ。強制された不満な結婚の約を破ることは登志子にとってはいともやさしいことに思えた。そしてなお彼女は修学中であった。共棲するまでには半年の猶予があったので、その間にどうにもなると思っていた。
帰校後の登志子はほとんど自棄に等しい生活をしはじめた。彼女と一緒にいた従姉はただ驚いていた。登志子は幾度かその苦悶をN先生に許えよう
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