きた汽車の窓に向って大勢の女学生に囲まれた背の高い男の姿を見出した。登志子は瞳を凝らしてその後姿を見つめていた。
「登志さん」
はずんだ従姉の声に我に返って手持無沙汰に立っている――永田――夫――に目礼して嫌な叔父に挨拶をすました。傲然とかまえた叔父の顔を見、傍におとなし気な永田を見出すと、彼女は口惜しさに胸がいっぱいになるのだった。
「うれしかるべき帰省――それがかくも自分に苦しいものとなったのもみんな叔父のためなのだ。叔父がこうしたのだ。見もしらぬこの永田が私のすべての自由を握るのか――私を――私を――誰が許した。誰が許した。私はこの尊い自身をいともかるはずみにあんな見もしらぬ男の前に投げ出したことはない。私は自身をそれほど安価にみくびってはいない私は、私は――」
登志子は押し上げて来る歔欷をのんでじっと突いた洋傘の先のあたりに目を落した。熱い涙がポツリポツリと眼鏡にあたってはプラットホームの三和土の上に落ちた。
「お登志さん、行きましょう」
と忘れたような安子の声を不意に聞いたときにはまき子は父と並んで二三間先を階段の方に歩いていた。
登志子が階段を上ろうとすると、後から急ぎ足に来て声掛けた男がある、さっきの田島だ。
「登志さんでしょう、今着いたの、御卒業でおめでとう」
今ここで思いがけない田島にこうした辞を述べられようとは予期しなかった。田島は去年高師を卒業してここの師範に赴任した。その人がまだ高師にいた間、登志子は兄さん兄さんと彼を何かにつけて頼りにしていた。たまには登志子の所を訪ねてきては後れた英語や数学を教えてくれたりした。しかし彼が帰省して女子師範に出るようになってからは、便りもとかく田島の方から不精にしていつかとだえ勝ちになってしまった。その登志子がようやく卒業して帰ってきたのを知らずに、この停車場で偶然に会ったのだ。偶然とはいいながら今彼に会ったことは登志子は何よりもうれしかった。何となく話したら自分の方に同情してくれる人だという気がする。しかし登志子は何もいうことが出来なかった。何かいったらいっぱいにたまった涙が溢れそうだ。安子が見ている。田島は何もしらない。それに田島の生徒は皆、自分等とはずっと飛びはなれた風姿をした女学生らしい登志子や前の方に行くまき子を、目をみはって眺めながらぞろぞろ歩いていく。登志子は何といっていいか分らない。しかしだまっている訳にはいかない。ようやくしぼり出したような苦しい笑を報いながら、
「ええありがとうやっとどうにか――」と小さな声でいって下向いた。
「どうかしたの、真青な顔だ、気分でも悪い?」
「え、少し疲れたからでしょう」
「そう、前のはまき子さんと叔父さんだろう」
「ええ」
階段を降りて入口を出ようとする所で叔父と田島は挨拶を交わした。田島は改めて卒業の祝辞を叔父にいった。叔父の顔はいかにも満足気に輝いた。
「え、まあどうにかつまづきもなくおかげさまで卒業までに漕ぎつけました。いやしかしどうもずいぶん骨が折れましたよ――」
「そうでしょう、しかしもう大丈夫ですよ御安心が出来ますね、本当に結構でした」
と傍のまき子の方に顔を向けた。叔父は忙しそうにそわそわしながら手荷物の世話などしはじめた。
登志子は呆然とそこに立っていた。永田に言葉をかけられることが恐ろしくてたまらなかった。なるべく彼と面を合わせないように合わせないようにと注意しながら立っていた。田島にだけは何かいいたいことがあるように思われていらいらした。いくども二人は顔見合わせた。そのたびにお互いに何かいいたげな顔をしては黙っていた。登志子はいよいよたまらなくなってしまった。こみ上げてくる涙を呑み込み呑み込み洋傘の柄をしっかり握って、どうかして自分ひとりきりになりたいと願った。そんなことの出来ようはずがないのが分っていながらも。――
暇取るとみて田島は、そのうちに宅に来てくれといって帰ってしまった。いよいよそこには安子と永田と登志子になった。彼女は永田の声を聞くことが体が震えるほど嫌だった。なるべく彼と口きかないように口きかないようにと避けて見たけれど、とうとう機会が来てしまった。せめて安子とでも何かいっていたいのだけれど、安子との話にきっと永田も仲間入りするだろうと思うとまたいやになってきて、どうしても口が開かない。三人ともだまってそこに立っていた。登志子にはその沈黙が苦しく気味悪くてたまらない。その沈黙の破れるときが恐ろしくてたまらない。けれどそれをどうすることも出来ないのだ。はやくまき子でも来てくれればいいと思ってはそこらを見まわした。まき子はそこらに見えなかった。
「ずいぶんお疲れになったでしょう」
登志子はハッとした。しかしすぐ後から気軽な安子の返事が聞こえたので、自分ではなかったと思うとホッとした。
ちょうどそのとき叔父が手荷物の始末をすましてそこに来た。後からまき子も来た。登志子は息がつけると思った。しかしどうしても後かれはやかれあの男と口をきかなければならないと思うと、なんだか体のアガキがとれないような気がした。その上に、もう十日か二十日もしたら、どうしてもあの男の家に行って、あの男と一緒に生活しなければならない――登志子にはそんな不快なことがどうしても出来そうになかった。
「なぜ帰って来たろう」
彼の女はつづけざまにそればかりを心で繰り返した。
登志子やまき子が帰っていく所は停車場から三里余りもあった。途中でも彼女は、身悶えしたいほど不快な遣り場のないおびえたような気持ちに悩まされ続けた。自分のその心持を覚られたくはなかったけれども、まき子がそわそわ嬉しそうな様子をしながら浮っ調子で話しているのを見ると、まるきり知らないではないのにもう少し自分の今の気持に同情があってもよさそうなものだ、注意してくれてもよさそうなものだという愚痴な、不平な心も起こして見たりした。
まき子の家に皆荷物をおろして、ちょっと立寄ったまま、登志子は松原つづきの町の家の方へ歩いていった。安子はまき子の家に泊ることになったので登志子と永田とが一緒に帰るのだ。挨拶をしてまき子の家の門口を出るや否や登志子は、後もふりむかずに出来るだけ大いそぎに袴の裾を蹴って歩いた。彼女は永田が彼女の態度に不快を感じているということは充分に承知していた。しかし身震いの出るほどいやなもの声を聞くのもいやだった。肩をならべて歩くことなんかとても出来ない。登志子はひたいそぎにいそいだ。それでもおとなしい永田はてくてく彼女の後からついてきた。登志子はもうなるべく追いつかれないように懸命になって急いだ。永田はとうとうこらえきれずに、
「登志さんは馬鹿に足が早いんだね」といった。登志子は返事することも出来なかった。
家では祖母が出たりはいったりして彼女を待っていた。駈け込むように家にはいると、そこに母や祖母などのなつかし気な笑顔が並んで彼女を迎えた。一家中の温い息が登志子の身辺に集まって、彼女のはりつめた心がようようにほぐれかけた。しかしそこにまだ永田がいると思うと、泣きたくなった。いろいろな皆の言葉もすこしも耳には入らない。
「私大変疲れていますから夜になるまで少し寝ますよ」
わがままらしく彼女は袴をとりだした。祖母は今着いたばかりの孫娘の、元気のない真青な顔を見るといとしそうに、
「オーそうだろう、長い旅でも汽車の中ではようねむられん、お母さん床を出しておやり」
と眉をよせながら、後から抱えんばかりに登志子と一緒に立った。
叔母と母は何となく手持無沙汰らしくそこに坐っている永田に気の毒らしく、
「おばあさんがあれなので、どうも――本当にわがままで――」
と叔母は取ってつけたようなお世辞笑いをしながら、永田を慰めるような詫びるような心持でいった。永田も仕方なしの笑いを報いて、だまってそこらを見まわした。
慧眼な祖母は、去年の夏気に入らない婚約をされて以来ことさらにはげしくなった登志子のわがままが心配でたまらなかった。そして、今日登志子がどんな気持ちで帰ってきたかもよく知っていた。だから彼女が家に入ってきたときの様子からいろいろな点で、彼女が嫌いぬいている永田にあくまでわがままを通さないではおかないというあの気性で、どんな態度に出たかということは見ないでも察しがついていた。叔母は、このおとなしい青年を前にしていると何よりもまず自分の大嫌いな理屈っぽい生意気な姪のわがままが憎らしくなった。
「どうしてあんなですかねえ、ああわがままがはげしくては、とても家なんかもてるもんじゃありませんよ、一緒にいるようになったらどしどししかりつけてやらなければいけませんよ、本当に」
登志子は床をとってもらうといきなり横になってすっぽりと蒲団を被った。もうひとりだと思うと、涙が溢れるように流れた、何の感情もない、ただ涙が出る、虚心でいて涙が出る、――ゆるんだ疲れ切った空虚な心は、いつか自から流す涙を見つめながら深い眠りに落ちていった。[#地付き]――一九一三・一一――
底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
入力:林 幸雄
校正:UMEKI Yoshimi
2002年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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