「別居」について
伊藤野枝
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(例)[#「せんさく」に傍点]
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一
私と、辻との間に「別居」という話が持ち出されたのは、この頃の事ではないのです。ちょうど、一年あまりになります。
私の今までの五年間の家庭生活というものは、私自身にとっては非常に無理なものでございました。それは私達二人きりで作った家庭でなかったということをいえば、本当に世間並な、因習と情実をもった「家」だということを、解って頂けることと存じます。たとえ家族の人達は、どれほど寛大でありましょうとも、どこまでも因習の上に建てられた家族制度というものを越えない範囲での寛大は、私には――他の多くの類した家の人たちに比べて見ますときには、その事に向っては常に感謝してましたが――やはり忍従を強いました。で私は、いつでも家庭における自分というものについては、充分な不自由も不満も感じながら、自分だけの気持を忍ぶということのために他の人々の感情の上に何のすさびも見なくてすむということを考えては、不快な時間になるべく出遇わないようにしたいという私の心弱さから、いつでも黙って忍びました。そして、私の家庭はかなり平和な日を送ることができました。そうして、また、そういう安易な日が続くことは自分にも慣れてきて、たいていはその平和に油断をしていました。けれども些細なことでも、ちょっと隙き間がありますと、種々な不平が一時に頭をもたげ出しました。けれども私は、いつでもそういう場合にはすぐに避難をする処をもっておりました。それは、辻に対する愛でした。私はいつでもそこに逃げ込みました。そうして、私のその避難所が世間並みの安易な「あきらめ」などのような弱いものでなく、充分に信をおく事のできるしっかりしたものであることを誇りにしていました。
しかしちょうど一年あまり前に、私のいちばん大事なその信は、無造作に奪われてしまいました。いくら躍起になっても一度失くなったものは再びけっして帰ってはきませんでした。そしてその事は、私にとってはたいへんな打撃でした。けれども私は、その打撃によって自分をどう処置するかということを考えなければなりませんでした。そうして、私は非常な苦痛を忍んだ後に、出来るだけ完全な自分の道を歩こうという決心を得ました。そしてその時初めて、五年間どのような事があっても唯の一度も口にしたことのない「別居」を申し出ました。しかし、この要求はいろいろな情実の下に遂げられませんでした。そうして、その情実を無理に退けて進むには、私はあまりに多くの未練と愛着を過去の生活に持ち過ぎました。二人が相愛の生活を遂げるために払った価が、まだ余程高価なものに思われました。そうしたことを考え始めますと、押し切って自分の決心を断行するという勇気はどうしても出てきませんでした。
けれども、その時から私の深い苦悶が始まりました。かつて、私達が軽蔑した状態に自分達がならねばならないということは何という情ないことでしょう。自分をも他人をも欺むくことの出来ない二人が、お互いに、自分達二人を結びつけるものに絶望しながら、それを自覚しながら、過去に対する未練や、現在の生活にからみついた情実や、単純な肉体に対する執着等によって、なお今まで通りの関係を続けようとする、その醜い感情を脱する事の出来ない自分を嘲りながら、それに引きずられて、どうすることも出来ないというのが情ない事でなくて何でしょう。
さらにもう一つの事は子供の事でした。両親の傍で成長し得ない子供の不幸は、私自身がすでによく知りぬいている事でした。自分の親しく通ってきた苦痛不幸の道を再び子供に歩かせるということは、どんなに大きな苦痛であるかわかりません。たとえ不断、自分自身について深く考えたときに、私のその不幸が決して本当の不幸でなく、そしてまた苦しんだことが無駄でないということ、そういう境遇によって、いくらか自分の歩く道にも相違が出来たこと、その他いろいろな事を考えて、かえってその方が私には幸福だったと思うことは出来ますが、そして子供の上にも同じ考えは持ちたいと思いますが、しかし母親としての本能的な愛の前には、その理屈は決して無条件では通りませんでした。私は子供のために、すべてを忍ぼうとしました。――当然母親の考えなければならない、そして誰でもがぶつかって決心するように、私も自然にそこにゆきつきました。私は子供に対する愛が今度は大事な私の拠り処となったのです。そしてその事をもう決して前のように軽蔑しなくなりました。私は一生懸命に子供の中に自分を見出だそうとしました。けれどもこれにも、私はすぐに絶望しなければなりませんでした。子供を完全に育てるという
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