る病人で長く臥蓐に余儀なくさるゝ場合に於て、其の慰安となり其の消悶の具となるものは唯読書あるのみだ。平素繁劇の人は斯る場合で無ければ書物に親しむ機会が無い。さるが故に此種の人は病中を楽天地として喜ぶものもある。病中は接客の煩もなく、何等清閑を妨げるものもないから、羈旅以上に読書に耽けることが出来る。多くの場合精神が沈静して自然サブゼクテーヴになつてゐるから、静思熟考も出来、随つて読書に依つて受け入れることも多いので、読書人はたまさか微恙に罹りたいと思ふことすらある。
(七)僧院は一種清寂の境である。仏像を拝し、弁香を嗅ぎ、梵鐘を聞く処におのづから超脱の趣がある。堂宇が高く広く、樹木は欝翠、市塵に遠かり、俗音を絶つてゐるから、読書には尤も此境が適する。古来多くの賢哲が僧院より輩出してゐるのは偶然でない。是の如き処に聖典を読み禅学を修め哲理を講ずるは最もふさはしいとされるが、必らずしも哲学研究の擅場とするにも及ぶまい。飛び離れた世俗の書を何くれとなく読むにも此境地が適してゐる。
(八)林泉も亦読書の一境である。人里遠き山や林に市塵を避け、侘びた草庵を結んだり、或は贅沢を極めた風景地の別荘など皆此の境地に属する。寛いだ気分で読書を為すはかゝる処であらねばならぬ。日夕接客に忙殺され、交際に日も亦足らぬ繁劇の人が静かに読書に親しみ得るは此境が最も適してゐる。或は温泉場を読書の処に選ぶのも、山海の旅館を仮りの住居として夏時暑を避けつゝ読書三昧に入るのも亦同日の談である。連続的に書物を読む必要がある時、著述の為めに書を読む時には、何人も林泉の境を喜ぶ。清閑である外に精神を養ふ自然美の環境が備つてゐるからである。僧院生活に似て、類は乃ち異なつてゐる。
 以上八境の外にまだいろ/\の境地がある。月明りで書を読んだり、蛍や雪の光りで書を読んだりすることもあれば、隣りの燈光を壁を穿つて拝借しての読書もある。或は厠で書物を読む慣習の人もある。一種の病に罹つて厠に長い時間居ることを余儀なくさるゝ人々などは、特に書物を載せる見台を構へる例もある。西洋ではバス・ブックといふ一種の本も出来てゐて、浴槽に体を浸しつゝ読書する慣習もある。或は釣を垂れつゝの読書、昔は茶臼を碾きながらの読書もあつた。或は人の僕となり主人に随伴し、供待の間に読書をしたり、或は駱駝や牛馬に跨りながらの読書もあつて、数へ来れば
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