枝は驚いて萩ノ茶屋のアパートへ来た。管理人が気を利かせて、応接間へ通したので同棲してゐるところは知られずに済んだと、楢雄はほつとした。寿枝は洋服代にしろと言つて何枚かの紙幣を渡さうとしたが、楢雄は受け取らうとしなかつた。
「僕にはもういただく金はない筈です。」
「いいえ、お前の金はまだ千円だけ預つてあります。」
「あれは兄さんにあげたお金です。」
「ぢや、これはお母さんがお前にあげます。」
 それならいいだらうと、無理に握らせると、やはりふと寿枝を見た眼が渋々嬉しさうだつた。しかし、帰りしなに寿枝が、
「お前もいつまでも頑固なことを言はずに、少しは世間態といふことも考へなさい。お母さんもお前に背広も着せない母親だと言はれたら、どんなに肩身が狭いか判りませんよ。」
 と言つたので、楢雄の喜びは途端に消えてしまつた。それでも雪江には、
「おい背広作れるぞ。」
 と、喜ばせてやる気になつた。が、雪江は何だが不安さうだつた。
 果して、管理人にきいてみると、寿枝は楢雄と雪江の暮しを根掘り聴いて行つたといふことだつた。楢雄は恥しさと、そして二人のことを聴きながら素知らぬ顔で帰つて行つた母親への怒りとで、真赤になつた。翌日、阿倍野橋のアパートヘ移つた。
 移転先は内緒にしてあつたが、病院で聴いたのか、移つて五日目の夜寿枝はやつて来た。楢雄は丁度病院の宿直で留守だつたが、わざと留守の時をえらんで来たらしく、その証拠に寿枝は雪江を掴へて、どうか楢雄と別れてくれとくどくど頼んだといふことだつた。寿枝も寿枝だが雪江も雪江で、寿枝の涙を見ると、自分も一緒に泣いて、楢雄さんの幸福のために身を引きますと約束したといふ。
「莫迦《ばか》野郎! 俺に黙つてそんな約束をする奴があるか。」
 と楢雄は呶鳴りつけて、「運勢早見書」の六白金星のくだりを見せ、
「俺は一旦かうと思ひ込んだら、どこまでもやり通す男やぞ。別れるものか。お前も覚悟せえ。」
 翌日、岸ノ里のアパートへ移つた。移転先は病院へも秘密にし、そして「俺ハ考ヘル所ガアツテ好キ勝手ナ生活ヲスル。干渉スルナ。居所ヲ調ベルト承知センゾ。昭和十二年九月十日午前二時|誌《シル》ス」といふ端書《はがき》を母と兄|宛《あて》に書き送つた。
 ところが、それから三日目に田辺の叔母が病院へやつて来た。
「あんたの同棲してゐる女は今宮の錻力《ブリキ》職人の娘で
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