渡さなかつたところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追ひ駈けて来たこと、感ずる所あつて昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかつたのでその犬に呉れてやつたこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすら喋《しやべ》り立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言へなかつた。
寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症を癒《なほ》した苦心を言ひ、そして今は癒つたが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があつて、先生、父もどんなにみつともないと気を揉んだことでせう。それから、今も暇さへあれば蠅ばかり獲つたり、ぶつぶつひとり言を言ふ癖がありまして、この頃は易《えき》の本を読み耽つてゐるやうでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かつた。
「ひとり言を言ふのは、心に不平がある証拠だが、易の本といふのは、君どういふ意味かね。」
と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、
「はあ、皆私が到らぬからであります。」
と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思ふと、いきなり楢雄の腕をつかんで、
「君は、君は、何といふことを……。」
泣きだしたので、さすがに楢雄もしみじみして、情けなく窓外の暮色を見たが、しかしなぜドラ猫が泣いたのか判らなかつた。
説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずつと待つてゐたらしく、修一が青い顔で寄つて来て、何ぞ俺の話出なかつたかと、声をひそめた。大丈夫だと言つてやると、修一はほつとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買つた。帰りの阪神電車は混んでゐた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、蘆屋の本妻の顔を想ひだした。すると香櫨園の駅から家まで三町の道は自然修一と並んで歩くやうになつた。そして、うしろからボソボソと随《つ》いて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合ひの精神科医の許《もと》へ楢雄を連れて行かうと思つた。
若森といふその医者は精神科医のくせにひどくせつかちの早のみ込みで、おまけに早口であつた。若森は寿枝の話を聴くなり、あ、そりや、エ、エ、エディプス・コンプレックス的傾向だね、お袋を愛する余り父親を憎むんだねと言ふと、寿枝は何だかよく判らぬままにニコニコしてうなづいた。楢雄はむつとして、若森が、
「君一つこの紙に、君の頭に泛《うか》ん
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