るじゃないの」
「健坊は雪ちゃんをいい娘にすればいいさ」
 そういった途端、うしろからボソボソ尾行て来た健坊がいきなり駈けだして、安子の傍を見向きもせずに通り抜け、物凄い勢いで去って行った。兵児帯が解けていた。安子はそのうしろ姿を見送りながら、
「いやな奴」と左の肩をゆり上げた。
 ところが、次の日曜日、安子とお仙と一緒に銭湯へ行っていると、板一つへだてた男湯から水を飛ばした者がいる。
「誰さ。いたずらおよしよ」
 安子が男湯に向って呶鳴ると、
「てやがんでえ。文句があるなら男湯へ来い、あははは……。女がいくら威張ったって男湯へ入ることは出来めえ。やあい、莫迦野郎!」
 男湯から来た声は健坊だ、と判ると安子はキッとした顔になり、
「入ったらどうするッ」
「手を突いて謝ってみせらア」
「ふうん……」
「手を突いて、それから、シャボン水を飲んで見せらア」
「ようし、きっとお飲みよ」
 安子はそう言うといきなり起ち上って、男湯と女湯の境についている潜り戸をあけると、男湯の中へ裸のままはいって行った。手拭を肩に掛けて、乳房も何も隠さずすくっと立ちはだかったまま、
「さあ入ったよ。手を突いてシャボン水お飲みよ」
 健坊は思わず顔をそむけたが、やがて何思ったかいきなり湯舟の中へ飛び込んで、永いこと潜っていた。
「なにさ。あたいは潜れと云っちゃいないわよ。シャボン水をお飲みと言ってるんだよ。へーん飲めもしない癖に……、卑怯者!」
 安子はそう言い捨てて女湯へ戻って来た。早熟の安子はもうその頃には胸のふくらみなど何か物を言い掛けるぐらいになっていた。
 やがて尋常科を卒え、高等科にはいると、そのふくらみは一層目立ち、安子の器量のよさは学校でよりも近所の若い男たちの中で問題になった。家の隣りは駄菓子屋だが、夏になると縁台を出して氷水や蜜豆を売ったので、町内の若い男たちの溜り場であった。安子が学校から帰って、長い袂の年頃の娘のような着物に着替え、襟首まで白粉をつけて踊りの稽古に通う時には、もう隣りの氷店には五六人の若い男がとぐろを巻いて、ジロリと視線が腰へ来た。踊りの帰りは視線のほかに冷やかしの言葉が飛んだ。そんな時安子は、
「何さ鼻たれ小僧!」と言い返しざまにひょいと家の中へ飛び込むのだったが、その連中の中に魚屋の鉄ちゃんの顔がまじっていると安子はもう口も利けず、もじもじと赫くなり夏の宵の悩ましさがふと胸をしめつけるのだった。鉄ちゃんは須田町の近くの魚屋の伜で十九歳、浅黒い顔に角刈りが似合い、痩せぎすの体つきもどこかいなせであった。
 やがて安子と鉄ちゃんの仲が怪しいという噂が両親の耳にはいった。縁日の夜、不動様の暗がりで抱き合っていたという者もあり、鉄ちゃんが安子を連れ込む所を見たという者もあった。さすがに両親は驚いた。総領の新太郎は道楽者で、長女のおとくは埼玉へ嫁いだから、両親は職人の善作というのを次女の千代の婿養子にして、暖簾を譲る肚を決め、祝言を済ませたところ、千代に男があったことを善作は知り、さまざま揉めた揚句、善作は相模屋を去ってしまった――。
 丁度その矢先に、安子の噂を聴いたのである。父親は子供達の悪さをなげきながら、安子に学校や稽古事をやめさせて二階へ監禁し、一歩も外出させず、仲よしのお仙がたずねて行っても親戚へ行っていると言って会わせなかった。
 安子は鉄ちゃんには唇を盗まれただけで、父親が言うように女の大事なものを失うような大それたことをした覚えはなかったから、
「鉄ちゃんと活動見に行ったり、おそば屋へ行ったりしただけで、監禁されるのはあわないわ。ねえおっ母さん、あたい本当にそんなことしなかったのよ、皆が言ってるのは嘘よ、だからお父っさんにたのんで、外へ出して貰ってよ」と、母親にたのんだ。安子に甘い母親はすぐ父親に取りついたが、父親は、
「鉄公とあったかなかったかは、体を見りゃ判るんだ。あいっの体つきは娘じゃねえ」
 と言って、この時ばかりは女房に負けぬ男だった。
 ところが二十日許りたって、母親がいつまでも二階に監禁して置いてはだいいち近所の体裁も悪い。それに学校や踊はやめてもせめてお針ぐらいは習わせなければと父親を口説き、お仙ちゃんなど半年も前から毎日お針に行ってるから随分手が上ったと言うと、さすがに父親も狼狽して今川橋の師匠の許へ通わせることにした。
 安子は二十日振りに外の空気を吸ってほっとしたが、何もしなかったのに監禁の辛さを味わせた父親への恨みは残り、お父つぁんがあくまで何かあったと思い込んでいるのなら、いっそ本当にそんなことをしてやろうかと思った。どうせ監禁されたのだから、悪いことをしても差引はちゃんとついている。このままでは引合わない、莫迦な眼を見たのはあたいだけだからと云うそんな安子の肚の底には、皆が大騒
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