の宵の悩ましさがふと胸をしめつけるのだった。鉄ちゃんは須田町の近くの魚屋の伜で十九歳、浅黒い顔に角刈りが似合い、痩せぎすの体つきもどこかいなせであった。
 やがて安子と鉄ちゃんの仲が怪しいという噂が両親の耳にはいった。縁日の夜、不動様の暗がりで抱き合っていたという者もあり、鉄ちゃんが安子を連れ込む所を見たという者もあった。さすがに両親は驚いた。総領の新太郎は道楽者で、長女のおとくは埼玉へ嫁いだから、両親は職人の善作というのを次女の千代の婿養子にして、暖簾を譲る肚を決め、祝言を済ませたところ、千代に男があったことを善作は知り、さまざま揉めた揚句、善作は相模屋を去ってしまった――。
 丁度その矢先に、安子の噂を聴いたのである。父親は子供達の悪さをなげきながら、安子に学校や稽古事をやめさせて二階へ監禁し、一歩も外出させず、仲よしのお仙がたずねて行っても親戚へ行っていると言って会わせなかった。
 安子は鉄ちゃんには唇を盗まれただけで、父親が言うように女の大事なものを失うような大それたことをした覚えはなかったから、
「鉄ちゃんと活動見に行ったり、おそば屋へ行ったりしただけで、監禁されるのはあわないわ。ねえおっ母さん、あたい本当にそんなことしなかったのよ、皆が言ってるのは嘘よ、だからお父っさんにたのんで、外へ出して貰ってよ」と、母親にたのんだ。安子に甘い母親はすぐ父親に取りついたが、父親は、
「鉄公とあったかなかったかは、体を見りゃ判るんだ。あいっの体つきは娘じゃねえ」
 と言って、この時ばかりは女房に負けぬ男だった。
 ところが二十日許りたって、母親がいつまでも二階に監禁して置いてはだいいち近所の体裁も悪い。それに学校や踊はやめてもせめてお針ぐらいは習わせなければと父親を口説き、お仙ちゃんなど半年も前から毎日お針に行ってるから随分手が上ったと言うと、さすがに父親も狼狽して今川橋の師匠の許へ通わせることにした。
 安子は二十日振りに外の空気を吸ってほっとしたが、何もしなかったのに監禁の辛さを味わせた父親への恨みは残り、お父つぁんがあくまで何かあったと思い込んでいるのなら、いっそ本当にそんなことをしてやろうかと思った。どうせ監禁されたのだから、悪いことをしても差引はちゃんとついている。このままでは引合わない、莫迦な眼を見たのはあたいだけだからと云うそんな安子の肚の底には、皆が大騒
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