さい。永い間住所も知らせず、手紙も差し上げず、怒っていらっしゃることと思いますが、そのお詫びかたがたお便りしました。僕は今でも、あなたが苦学生の僕の洋服のほころびを縫って下すった御親切を忘れておりません。御自愛祈ります。
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 その文面だけでは、姉の喜美子とその大学生がどんな交際《つきあい》をしていたのか、道子には判らなかったが、しかし、読み終って姉の机の抽出の中を探すと果して鴎外の「即興詩人」の文庫本が出て来た。
「お姉さまはなぜこの御本を返さなかったのだろう?」
 と呟いた咄嗟に、あ、そうだわと、道子は思い当った。当時大阪の高等学校の生徒であったその青年は、高等学校を卒業して東京の大学へ行ってしまうと、もうそれきり手紙も寄越さず、居所も知らさなかったのではなかろうか。それ故返そうにも返せなかったのだ。
 たぶん二人の仲は、その生徒よりも三つか四つ歳上の姉が、苦学生だというその境遇に同情して、洋服のほころびを縫ってやったり、靴下の穴にツギを当ててやったりしただけの淡いもので、離れてしまえばそれ切り、居所を知らせる義務もないような、なんでもない仲であったのかも知れないと、道子は想像した。
「けれど、お姉さまが待っていらしったのは、やはりこの人の便りだったのだわ。」
 道子はそう呟き、机の抽出の中に大切につつましくしまわれていた「即興詩人」の中に、ひそかな姉の青春が秘められていたように思われて、ふっと温い風を送られたような気がした。
「でも、待っていた便りが、死んでしまってから来るなんて、そんな、そんな……。」
 そう思うと、道子はまた姉が可哀想だった。姉の青春のさびしさがこんなことにも哀しく現れていると、ポトポト涙を落しながら、道子はペンを取って返事をしたためた。
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 妹でございます。姉喜美子ことは、ことしの七月八日、永遠にかえらぬ旅に旅立ってしまいました。永い間ご本をお借りして、ありがとうございました。……
[#ここで字下げ終わり]
 そこまで書いて、道子はもうあとが続けられなかった。しかし、ただ悲しくなって、筆を止めたのではなかった。
 学徒海鷲として雄雄しく飛び立とうとするその人に、こんな悲しい手紙を出してはいけないと思ったのだ。これまで姉に手紙を寄越さなかったのは、おそらく学生らしいノンキなヅボラさであったかも知れ
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