なら鴎外を読んだあとで、あわてて誰かの鴎外研究を繙いてみたりするようなことは避けている。鴎外の作品という実物にふれているたのしみを味えば、もうそれで充分だと思う。結論がたやすく抜き書きできたりするような書物はだから僕には余り幸福を与えてくれない。音楽に酔うているようなたのしみを、その書物のステイルが与えてくれるようなものを、喜んで読みたいと思うのである。アランや正宗白鳥のエッセイがいつ読んでも飽きないのは、そのステイルのためがあると思っている。このひと達へ作品からは結論がひきだせない。だから、繰りかえし読む必要があるし、そしてまたそれがたのしいのである。抜き書きをしない代り絶えず繰りかえし読む、これが僕の唯一の読書法である。そして繰りかえし読むことがたのしいような書物を座右に置きたいと思う。
高等学校時代ある教授がかつて「人生五十年の貧しい経験よりもアンナカレーニナの百頁を読む方がどれだけわれわれの人生を豊富にするかも知れない」と言った言葉を、僕はなぜか印象深く覚えているが、しかし二十二歳の時アンナカレーニナを読んでみたけれども、僕はそこからたのしみを得ただけで、人生かくの如しという感慨も、僕の人生が豊富になったという喜びも抱かなかった。恐らくこれは僕が若すぎたせいもあろうと思う。それ故、若い頃に読んだ古典はあとで必ず読みかえすべきであると思う。若い頃に読んだから、もう一度読みかえすのは御免だというのであれば、はじめから読んで置かない方がましであろう。日本の古典なども、僕らが学生時代にしきりに古典復興を唱えている先生たちから習って置かなければ、今もっと読みなおしてよい気持が起るのではなかろうか。名曲など下手な演奏者の手にかかると、ひとからその名曲が与える真のよろこびを取り去ってしまうものである。
しかし、繰りかえし読むと言っても、その書物の入手しがたいこともある。そういう時は僕は縁のないものと諦めてしまい、千里を近しとしてその書物を探し廻ろうとは思わない。入手できない書物にあるいは潜んでいるかも知れない未知の重大な思想も、触れなければ触れないで済まして置こうと思う。未知の恋人同様、会わなければ会わないで、また心安らかであろう。新刊書が入手しにくくなったという苦情もきくが、しかし、入手し損って一生の損失になるようなそんな新刊書がどれくらいあろうか。噂だけきいて会うことの出来なかった恋人でも、いざ会うてみると、それほどのこともないのである。苦情は当らない。僕は繰りかえし読む百冊の本を持っていることで、満足しているのである。
底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「現代文学」
1943(昭和18)年9月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
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