く、その鋭さは小沢にはふと意外だった。
「ええ、ちょっと……」
 こんどは本当に頭をかきながら、
「――たすけると思って、貸していただけませんか」
 道子は急に立ち上って、茶の間を出て行った。
 そして、奥の部屋で何やらヒソヒソ言っているらしかったが、やがて戻って来ると、
「折角ですけど……」
 お貸し出来ませんわと、悲しそうな表情を唇に見せながら、その唇をキッと噛んだ。

「どうして……」
 駄目ですか――という眼で、小沢はちらと道子の顔を見ると、道子はキッと唇を噛みながら暫く、あらぬ方を見つめていたが、やがて、
「著物差し押さえされました」
 本を読むような、表情のない声で言って、ふと、微笑むといつものえくぼが浮かんだ。
 しかし、そのえくぼには寂しい翳があった。
「えっ……? サシオサエ……?」
 咄嗟に、意味が判らなかった。
「執達吏が今うちへ来てるんです」
「ああそれで……」
 判った。
 さっき玄関で見た三足の男の靴は、サシオサエに来ているのだったかと、判ったが、
「――しかし、どうして……?」
 と、疑問は残った。
「兄が高利貸に借金したんです」
「へえ……? 伊部君が……」
 高利貸に借金するとは、意外だった。
 伊部は二十五歳で医学博士になったくらいの秀才で、酒も煙草も飲まぬ、いわゆる品行方正の男だったし、勤務先の阪大病院でもまず相当な給料を貰っていたから、高利貸に金を借りるような生活はまるで想像も出来なかった。
 ところが――。
「……敗戦になってから、急に酒を飲みだしたんです」
 おまけに煙草は日に八十本、病院もやめてしまい、毎日ぶらぶらして、水すましのように空虚な無為徒食の生活をはじめた――と道子はスカートの端をひっぱりながら言った。
「どうしてまた……?」
 そんな風になったのかと、小沢はびっくりして、口も利けなかった。
「それが……」
 と、道子はふとうなだれて、
「――あたしにも判らないんです」
「ふーん」
 小沢にも無論判らなかった。
「――病院もやめてしまったんですか」
「病院から、来てくれ来てくれって、喧しく言って来るんですけど、どうしても……。戦争が終ってから、何んとなく行く気がしないと云うんです。すっかり人間が変ってしまいましたわ」
 あとの方は、声がうるんだ。
「ふーん」
 と唸るより仕方がなかった。
「小沢さん、お願いです」
 道子は小沢の名を言う時、急に赧くなった。
「――兄さんに忠告して下さい」
「で、兄さんは今どこにいるんですか」
「たぶん渡辺橋の方だと思います」
「何をしに……?」
「何もすることがないので、毎日朝早くから魚を釣りに行っているんです」
 情なそうに、道子は言った。

「魚釣り……?」
 など、するような伊部ではなかったのだ。研究と仕事以外には、何一つ道楽も趣味もない男で、欠伸する暇もないくらい、医学の仕事に全身を打ち込んでいたのだ。
「ええ」
 と、道子は小沢に答えた。
「――朝暗い内から起きて、出て行くんです。そして、一日中渡辺橋のところで、坐ってるんです」
「釣れるんですか」
 小沢は愚にもつかぬ質問をした。それよりほかに、何か言うべきことを知らない――それほど呆れ返っていたのだろう。
「さア、どうですか。一匹も持って帰ったことはありませんの。釣ったのは、みな川へ逃がしてやるらしいですの」
 その悲しそうな声は、小沢の胸を痛めた。
「伊部の奴!」
 と唇を噛んで、ふと壁に掛った野口英世の写真を見あげて、
「――僕これから行って、言いきかせてやります」
「お願いします」
「じゃ……」
 起ち上ろうとするのを道子は、
「あらッ。――いまお茶を入れますから……」
 このまま小沢が帰ってしまうことが、思いがけず寂しかった。
 がなぜ、そんなに寂しいのだろう。
「そうですね。じゃお茶だけ……」
 いただきましょうと、小沢は坐り直したが、しなければならないことが山ほどありながら、ふと自分をひきとめたものは、一体何であろうかと、小沢は道子の顔から、あわてて眼をそらした。
 その拍子に、雪子の顔がちらと浮んだ。自分の帰りを待っている雪子の顔が……。著物、帯、下駄……。
 道子は湯呑みを出そうとして、水屋の戸をあけようとした。
 その時、いきなりはいって来た男が、
「おっと……、それ、あけちゃ困りまっせ」
 と、道子の手を払おうとした。
「なぜいけないんだ?」
 小沢は道子の分までむっとして怒鳴るように言った。
「封印がしてまっさかいな」
 男はにやにやした。
「一体、伊部君はいくら借りたんです」
「千円です」
 道子が言うのと同時に、男は、
「二万三千円……。元利合計してまっさかいな。へ、へ、へ……」
「千円が二万三千円……? そんな莫迦な……」
「伊部さんにきいてみなさ
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