と見えた。Sは銃につけ剣して、いかめしく身構えて、つまり見張りの役をしていたのだ。ほかの兵隊達は皆見送人と、あちこちに集いながら団欒しているので、自分がその見張りの役を買っているのだと、彼は淋しい顔もせずに言った。彼には見送人が私のほかには無かったのだ。私はSは両親も兄弟も親戚もない、不遇な男であることを想い出した。彼はたった一人の見送人である私を待ち焦れながら、雨の土砂降の中を銃剣を構えて、見張りの眼をピカピカ光らせていたのだ。言葉少く顔見合せながら、私達のお互いの心には瞬間、温く通うものがあった。眼の奥が熱くなった。
 やがて、ラッパが鳴り響いた。集合、整列、そして出発だ。Sは背嚢を肩にした。ラッパの勇しい響きと同時に、到るところで、××君万歳の声が渦をまいて、雨空に割込むように高く挙った。その声は暫く止まなかった。整列、点呼が終った。またしてもラッパだ。出発である。兵隊達は靴音を立て始めた。Sも歩き出した。ふと、Sの視線が私の視線に飛びこんで来た。微笑があった。私はSへの万歳がなかったことに今はじめて狼狽して、いきなりS君万歳とひとりで叫んだ。私の声は腹に力が足りなかったのか、かなり涸れた細い声で、随分威勢が上らなかった。それをSのために済まなく思った。けれども彼は、思い掛けぬ私の万歳にこぼれ落ちるような喜びを雨に濡れた顔一杯泛べた。よくも万歳をいってくれたなアという嬉しさがありありと見えた。孤独なSよ、しかし君はいまは聖なる日本の兵隊だ。そう思ってSの顔を見ようとしたが、私の眼はもはやぼうっとかすんでいた。雨が眼にはいったせいばかりではなかった。ぼろりと泪を落して、私は、Sはきっと目覚しい働きをするだろうと、Sの逞しい後姿を見た。そうしてSの姿を見失うまいと、私はもはや傘もささずに、S達の行軍のあとを追うて行った。雨はなおも降っていた。



底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「大阪銃後ニュース第十号」
   1940(昭和15)年7月25日
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2009年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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