り合ってる手が汗をかいたりした。
 深くなり、柳吉の通い方は散々|頻繁《ひんぱん》になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。
 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団《ふとん》の下に隠《かく》したので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮《しょせん》、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆《か》け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩《かさ》んで、蒼《あお》くなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履《おとこば》きの草履を贈《おく》って来た。添《そ》えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへ洩《も》れてしまって、枕元《まくらもと》へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目《ききめ》なしと諦《あきら》めていた父親も、今度ばかりは、打つ、撲《なぐ》るの体の自由が利かぬのが残念だと涙《なみだ》すら浮《うか》べて腹を立てた。わざと五つの女の子を膝《ひざ》の上に抱《だ》き寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫《さけ》び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴《め》と肚の中で呟《つぶや》いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋《えびすばし》「天狗《てんぐ》」の印がはいっており、鼻緒《はなお》は蛇《へび》の皮であった。
「釜《かま》の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離《きゅうり》切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固《がんこ》は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端《とたん》に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心の曇《くも》りが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落《かけお》ちせえへんか。
 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股《おおまた》で横切って来た。髪《かみ》をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。
 八月の末で馬鹿《ばか》に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日|間《ま》があるというのを拝み倒《たお》して三百円ほど集ったその足で、熱海《あたみ》へ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人《ふたり》の行末のことを考えたら、そんな呑気《のんき》な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚《さら》い、土地の芸者から「大阪《おおさか》の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰《なぐさ》まった。
 二日そうして経《た》ち、午頃《ひるごろ》、ごおッーと妙《みょう》な音がして来た途端に、激《はげ》しく揺《ゆ》れ出した。「地震《じしん》や」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖に掴《つか》まったことは掴まったが、いきなり腰を抜《ぬ》かし、キャッと叫んで坐《すわ》り込んでしまった。柳吉は反対側の壁《かべ》にしがみついたまま離《はな》れず、口も利けなかった。お互《たが》いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔《くい》が一瞬《いっしゅん》あった。

 避難《ひなん》列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、真《まっ》すぐ上塩町《かみしおまち》の種吉の家へ行った。途々《みちみち》、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼《は》られていた。
 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚《びっくり》してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊《き》けば、蝶子の失踪《しっそう》はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠《ねむ》れなんだという。悪い男|云々《うんぬん》を聴き咎《とが》めて蝶子は、何はともあれ、扇子《せんす》をパチパチさせて突《つ》っ立っている柳吉を「この人|私《わて》の何や」と紹介《しょうかい》した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上|挨拶《あいさつ》が続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。
 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を顔にあてた。泣き止《や》んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一《しんいち》は尋常《じんじょう》四年で学校へ上っとりますが、今日《きょう》は、まだ退《ひ》けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文《いい》に行った。
 銀蠅《ぎんばえ》の飛びまわる四|畳《じょう》の部屋《へや》は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱《さげばこ》に入れて持ち帰り、皆は黙々《もくもく》とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨《むね》蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚《びっくり》してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮《きょうしゅく》した。
 母親の浴衣を借りて着替《きか》えると、蝶子の肚はきまった。いったん逐電《ちくでん》したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子に甘《あま》いところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦《げっぷ》で払う肚を決めていた。「私《わて》が親爺《おやじ》に無心して払いまっさ」と柳吉も黙《だま》っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振《ふ》った。「あんさんのお父つぁんに都合《ぐつ》が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異を樹《た》てなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄《はしか》の他には風邪《かぜ》一つひかしたことはない、また身体《からだ》のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。

 二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯《しょたい》を張った。階下《した》は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮《くら》しに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼《かせ》ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増《としま》芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋《しゅうせんや》みたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会《えんかい》や婚礼《こんれい》に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡《れんらく》をとり、派出させて仲介《ちゅうかい》の分をはねると相当な儲《もう》けになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更《よふ》けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入《みい》りではないとおきんから聴いて、早速《さっそく》仲間にはいった。
 三味線《しゃみせん》をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部《ぜんぶ》の運びから燗《かん》の世話に掛《かか》る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌《しゃく》をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾《ひ》かされ歌わされ、浪花節《なにわぶし》の三味から声色《こわいろ》の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節《やすぎぶし》を踊《おど》らされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚《びっくり》するほどの大年増の朋輩《ほうばい》が、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬《のらいぬ》や拾い屋(バタ屋)が芥箱《ごみばこ》をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭《なまぐさ》い臭気《しゅうき》が漂《ただよ》うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香《にお》いがした。
 山椒昆布《さんしょこんぶ》を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋《なべ》にいれ、亀甲万《きっこうまん》の濃口《こいくち》醤油をふんだんに使って、松炭《まつずみ》のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋《えびすばし》の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈《たいくつ》しのぎに昨日《きのう》からそれに掛り出していたのだ。火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣《こづか》いに少しも手をつけていなかった。蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配《あんばい》に煮えて来よったやろ」長い竹箸《たけばし》で鍋の中を掻《か》き廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋《こい》しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾《すそ》をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇《ひま》かかって何してるのや」こんな口を利いた。
 柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。「おばはん小遣い足らんぜ」そして三円ぐらい手に握《にぎ》ると、昼間は将棋《しょうぎ》などして時間をつぶし、夜は二《ふた》ツ井戸《いど》の「お兄《にい》ちゃん」という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「僕《ぼく》と共鳴せえへんか」そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想《かわいそう》やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊《ぼ》ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉《うれ》しく、苦労の仕甲斐《しがい》あると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。

 その年も暮に近づいた。押しつまって何となく慌《あわただ》しい気持のするある日、正月の紋附《もんつき》などを取りに行くと言って、柳吉は梅田《うめだ》新道《しんみち》の家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、い
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング