の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物《つけもの》、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡《たか》をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
秋めいて来て、やがて風が肌寒《はだざむ》くなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒《めいしゅ》の本鋪《ほんぽ》から、看板を寄贈《きぞう》してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空《むな》しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費《むだづか》いもないままに、勢い溜《た》まる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉は疲《つか》れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子《いす》に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気を腐《くさ》らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日《もんび》が続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜更《おそ》く、帰って来た。耳を澄《す》ましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛《はんべえ》様もお通に免《めん》じ、子までなしたる三勝《さんかつ》どのを、疾《と》くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまい
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