汽車賃にしろと十円呉れた。押しいただき、出世したらきっと御恩がえしは致しますと、例によって涙を流し、きっとした顔に覚悟の色も見せて、そして、大阪行きの汽車に乗った。
 夕方、梅田の駅につきその足で「リリアン」へ行った。女給の顔触れも変っていて、小鈴は居なかった。一人だけ顔馴染みの女が小鈴は別府へ駈落ちしたといった。相手は表具屋の息子で、それ、あんたも知ってるやろ、昆布茶一杯でねばって、その代りチップは三円も呉れてた人や。気がつけば、自分も今は昆布茶一杯注文しているだけだ。一本だけと酒をとり、果物もおごってやって、オイチョカブの北田のことを訊くと、こともあろうに北田は小鈴の後を追うて別府へ行ったらしい。勘定を払って外へ出ると、もう二十銭しかなかった。夜の町をうろうろ歩きまわり、戎橋の梅ヶ枝できつねうどんをたべ、バットを買うと、一銭余った。夜が更けると、もう冬近い風が身に沁みて、鼻が痛んだ。暖いところを求めて難波の駅から地下鉄の方へ降りて行き、南海高島屋地階の鉄扉の前にうずくまっていたが、やがてごろりと横になり、いつのまにか寝込んでしまった。
 朝、生国魂神社の鳥居のかげで暫く突っ立っていたが、やがて足は田蓑橋の阪大病院へ向った。当てもなく生国魂まで行ったために空腹は一層はげしく、一里の道は遠かった。途々、なぜ丸亀へ無心に行かなかったのかと思案したが、理由は納得出来なかった。病院へ訪ねて行くと、浜子はこんどは眼に泪さえ泛べて、声も震えた。薄給から金をしぼりとられて行くことへの悲しさと怒りからであったが、しかし、そうと許り云い切れないほど、順平は見窄らしい恰好をしていた。云うも甲斐ない意見だったが、やはり、私に頼らんとやって行く甲斐性を出してくれへんのかとくどくど意見し、七円めぐんでくれた。懐からバットの箱を出し、その中に金をいれて、しまいこみながら、涙を出し、また、にこにこと笑った。浜子と別れると、あまい気持があとに残り、もっともっと意見してほしい気持だった。玉江橋の近くの飯屋へはいって、牛丼を注文した。さすが大阪の牛丼は真物の牛肉を使っていると思った。木下の屋台店で売っていた牛丼は、繊維が多く、色もどす赤い馬肉だった。食べながら、別府へ行けば千に一つ小鈴かオイチョカブの北田に会えるかも知れぬと思った。
 天保山の大阪商船待合所で別府までの切符を買うと、八十銭残ったので、二十銭で餡パンを買って船に乗った。船の中で十五銭毛布代をとられて情ない気がしたが、食事が出た時は嬉しかった。餡パンで別府まで腹をもたす積りだった。小豆島沖合の霧で船足が遅れて、別府湾にはいったのはもう夜だった。山の麓の灯が次第に迫って来て、突堤でモリナガキャラメルのネオンサインが点滅した。
 船が横づけになり、桟橋にぱっと灯がつくと、あっ! 順平の眼に思わず涙がにじんだ。旅館の法被を羽織り提灯をもったオイチョカブの北田が、例の凄みを帯びた眼でじっとこちらをにらんでいたのだ。兄貴! 兄貴! とわめきながら船を降りた。北田は暫くあっ気にとられて物も云えなかったが、順平が、兄貴わいが別府へ来るのんよう知ったナというと、阿呆んだらめ、わいはお前らを出迎えに来たんやないぞ、客を引きに来たんやと四辺を憚かる小声で、それでもさすがに鋭くいった。
 聴けば、北田は今は温泉旅館の客引きをしており、小鈴も同じ旅館の女中、いわば二人は共稼ぎの本当の夫婦になっているのだという。だんだん聴くと、北田はかねてから小鈴と深い仲で、その内に小鈴は孕んで、無論相手は北田であったが、北田は一旦はいい逃れる積りで、どこの馬の骨の種か分るもんかと突っ放したところ、こともあろうに小鈴はリリアンへ通っていた表具屋の息子と駈落ちしたので、さてはやっぱり男がいたのかと胸は煮えくり返り、行先は別府らしいと耳にはさんだその足で来てみると、いた。温泉宿でしんみりやっているところを押えて、因縁つけて別れさせたことは別れさせたが、小鈴はその時――どない云いやがったと思う? と、北田はいきなり順平にきいたが、答えるすべもなくぽかんとしていると、北田はすぐ話を続けて――わては子供が可哀相やから駈落ちしたんや。どこの馬の骨か分らんようなでん[#「でん」に傍点]公の種を宿して、認知もしてもらえんで、子供に肩身の狭い想いをさせるより、表具屋の息子が一寸間アが抜けてるのを倖い、しつこく持ちかけて逐電し、表具屋の子やと否応はいわせず、晴れて夫婦になれば、お腹の子もなんぼう幸せや分らへん。そんな肚で逐電したのを因縁つけて、オイチョの北さん、あんたどない色つけてくれる気や。そんな不貞くされに負ける自分ではなかったが、父性愛というんやろか、それとも今更惚れ直したんやろか、気が折れて、仕込んで来た売屋の元も切れ、宿賃も嵩んで来たままに小鈴はそ
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