か、むつかしい問題だ。
これからの文学は、五十代、四十代、三十代、二十代……とはっきりわけられる特徴をそれぞれ持つようになるだろう。目下のところ五十代はかわらず、四十代は迷い、三十代は無気力、二十代はブランク。四十代はやがて迷いの中から決然として来るだろうし、二十代はブランクの中から逞しい虚無よりの創造をやるだろうか、三十代はどうであろうか。三十代(僕もそうだが)は自分の胸に窓をあける必要がある。窓の中はガラン洞であってもいい。そのガラン洞を書けばいい。三十代は今まで自分に窓をあけるのを、警戒しすぎていた。これは三十代の狡さだ。尻尾を見せることを、おそれてはならない。
新人が登場した時は、万人は直ちに彼を酷評してはならない。むしろ多少の欠点(旧人から見れば新人はみな欠点を持っている)には眼をつむって、大いにほめてやることが、彼を自信づけ、彼が永年胸にためていたものを、遠慮なく吐き出させることになるのだ。起ち上りぎわに、つづけざまに打たれて、そのまま自信を喪失した新人も多い。新人を攻撃しつづけると、彼は自己の特徴である個性的表現を薄めようとする。だから、まず彼をほめ、おだてて、思う存分個性的表現を発揮させるがよい。けなすのは、そのあとからでもよい。由来、この国の人は才能を育てようとしない。異色あるものに難癖をつけたがる。異分子を攻撃する。実に情けない限りだ。もっとも甘やかされるよりも、たたかれる方が、たたかれた新人自身を強くすることもある。僕は処女作以来今日まで、つねにたたかれて来た。つねに一言の悪罵を以て片づけられて来た。僕の作品はバイキンのようにきらわれた。僕は僕の作品の一切の特徴を捨ててしまおうと思った。僕がけなされている時、同時にほめられている作家のような作品を書いてやろうとさえ思った。そのような作品を書くことは、僕には容易であった。しかし、また僕は思った。あんな作品がほめられているような文壇や、あんな作品に感心しているような人から、けなされて、参るのは情けないと。僕はたたかれても、けなされても、平気で書きつづけた。そして今日もなおその状態が変らない。僕は相変らずたたかれて、相変らず何くそと思って書いている。闘志で書いているようなものだ。東京の批評家は僕の作品をけなすか、黙殺することを申し合わしているようだ――と思うのは、僕のひがみだろうが、しかし、僕
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