が出て、眼がかすんだ。が、そのやに[#「やに」に傍点]を拭きながら、やはり好きなアルコールをやめなかった。自分でも悪いと思っていたのだろう。だから自虐的に、武田麟太郎失明せりなどというデマを飛ばして、腹の中でケッケッと笑っていた。そんな武田さんが私は何ともいえず好きだった。ピンからキリまでの都会人であった。
去年の三月、宇野さんが大阪へ来られた時、ある雑誌で「大阪と文学を語る座談会」をやった。その時、武田さんの「銀座八丁」の話が出た。宇野さんは武田さんのものでは「銀座八丁」よりも「日本三文オペラ」や「市井事」などがいいと言っておられたように記憶している。これらの作品は武田さんの二十代か三十二三の頃のものであった。近頃の三十歳前後の作家は何をボヤボヤしているかと言いたいくらい、これらの作品は優れている。が、武田さんは「日本三文オペラ」から「銀座八丁」のリアリズムを通って、遂に「雪の話」一巻の象徴の門に辿りついた。「雪の話」は小説の中の小説であった。宇野浩二――川端康成――武田麟太郎、この大阪の系統を辿って行くと、名人芸という言葉が泛ぶ。たしかに、宇野、川端以後の小説上手は武田麟太郎であった。この大阪の系統が文壇に君臨している光景は、私たち大阪の末輩にとってはありがたいことであった。宇野、川端以後の武田麟太郎――といえるのは、しかし「雪の話」一巻が出てからではなかったか。巧い、巧い、巧すぎるほどの「雪の話」であった。
「雪の話」以後、武田さんは南方へ行き、沈黙した。報導班員として武田さんほど何も書かなかった作家は稀有である。奥床しい態度であった。帰還後一、二作発表したが、武田さんの野心はまだうかがえなかった。象徴の門の入口まで行って、まだ途まどいしていた。終戦になった。私は武田さんは何を書くだろうかと、眼を皿にしていた。そして眼に触れたのが「新大阪新聞」の「ひとで」であった。立派なものであったが、武田さんの新しいスタイルはまだ出ていなかった。しかし、私は新しいスタイルの出現を信じていた。今日の世相が書ける唯一の作家としての、武田さんの新しいスタイル――混乱期の作品らしいスタイル――「雪の話」の名人芸を打ち破って溢れ出るスタイルを待望していた。そんな作品がどこかの雑誌に載りはしないだろうかと待っていた。「人間」や「改造」や「新生」や「展望」がどうして武田さんの新しい小説を取らないのかと、口惜しがっていた。私は誇張して言えば、毎日の新聞の雑誌広告の中に武田さんの名を見つけようとして、眼を皿にしていた。(これは私一人ではあるまい)そして、見つけたのは「武田麟太郎三月卅一日朝急逝す」
死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んでしまうなんて、一体どうしたことであろうか。東条英機のような人間が天皇を脅迫するくらいの権力を持ったり、人民を苦しめるだけの効果しかない下手糞な金融非常処置をするような政府が未だに存在していたり、近年はかえすがえすも取り返しのつかぬような痛憤やる方ないことのみが多いが武田さんの死もまた取りかえしのつかぬ想いに私をうろたえさせる許りで、私は暫らく蒲団をかぶって「方丈記」でも読んでいたい。「方丈記」を読みながら、武田さんと一緒に明かした吉原の夜のことでも想いだしていたい。あんな時もあったのだ。(四月五日)
底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「文芸新風」
1946(昭和21)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
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