頃、武田麟太郎が鰐に食われて死んだという噂がひろがった。私は本当にしなかった。武田麟太郎が鰐を食ったのなら判るが、鰐に食われるようなそんな武麟さんかねと笑った。たぶん武田さんが自分でそんなデマを飛ばし、それが大阪まで伝わって来たのではないかと思った。だからこんどの急死も武田さんが飛ばしたデマじゃないかと、ふと思ってみたりする。
死因は黄疸だったときく。黄疸は戦争病の一つだということだ。新大阪新聞に連載されていた「ひとで」は武田さんの絶筆になってしまったが、この小説をよむと、麹町の家を焼いてからの武田さんの苦労が痛々しく判るのだ。不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。「田舎者東京を歩く」というような文章を書いていた。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったのだ。戦争が武田さんを殺したのだ。
絶筆の「ひとで」を私はその新聞の文化欄でほめて置いた。武田さんでなければ書けない新聞小説だと思ったのだ。新聞小説としては面白い作品とは言えなかったであろう。しかし、激しい世相の中に身を置いた武田さんの正直さがそのままにじみ出ているような作品であった。その正直さはふと律儀めいていた。一見武田さんに似合わぬ律儀さであった。が、これが今日の武田さんの姿としてそのまま受け取って、何の不思議もないと私は見ていた。不死身の麟太郎だが、しかしあくまで都会人で、寂しがりやで、感傷的なまでに正義家で、リアリストのくせに理想家で――やっぱりそんな武田麟太郎が「ひとで」の中に現れていた。悲しい姿であった。日本が悲しくなってしまったように、武田さんも悲しくなってしまっていた。その悲しさを、いつもの武田さんは自分で殺していた。人には見せなかった。ところが、ふとそれが現れてしまったのだ。通り魔のように現れたのだ。そして通り魔のうしろには死神がついていた。うしろには鬼がいるにきまっているとは、横光さんの言葉で、武田さんもよくこの言葉を引用していた。
しかし、そんな悲しい武田さんを想像することは今は辛い。やはり、武田麟太郎失明せりというデマを自分で飛ばしていた武田さんのことを、その死をふと忘れた微笑を以て想いだしたい。失明したというのは、実はメチルアルコールを飲み過ぎたのだ。やに[#「やに」に傍点]
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