言隻句はまるで文学の神様のような権威を与えられて、大正昭和の文学を指導して来ました。が、果してこれらの大家たちの作品が最高のものでしょうか。例えば藤村先生の文学、徳田秋声先生の文学、志賀直哉さんの文学などは、日本的な小説伝統の限りでは、立派なものであり、最高のものでありましょうが、しかし、われわれ近代小説への道に苦労している若い作家にとって、これらの文学伝統は、いったいいかなるプラス的影響を与えてくれるでしょうか。僕はことさらに奇嬌な言を弄して、先輩大家の文学を否定しようとするつもりはありません。ただ僕のいいたいのは、これらの文学、つまり、末期の眼を最高の眼とする、いわゆる年輪的な心境の完成を目指した文学を、最高の文学的権威とする文壇の定説が、変な言い方ですが、いわば文壇進歩党の旗印みたいになって、古い日本のものの考え方や伝統や権威を疑ってみて、新しい近代を打ち樹てようとする今日もなお、多くの心酔者を得、模倣者や亜流を作ってはびこっていることが、果して幸福な現象か不幸な現象かということを、言いたいのです。この人たちの文学はそれぞれ出現当時は新しいものでした。立派なものでした。今日も立派です。作家としても尊敬に値する人たちです。しかし、この人たちの辿りついた道から出発して、第二の藤村、第二の秋声、第二の志賀直哉を作ることは、もはや今日無必要な努力であります。日本は敗戦しました。過去の日本は亡びました。すべては新しい近代に向って進もうとしております。しかし、日本の文章は少しも変っておりません。文壇の権威も昔のままです。文章の句読点の切り方すら変っておりません。これはおかしいことです。
 正倉院の御物の公開があると、何十万という人間が猫も杓子も満員の汽車や電車に乗り、死に物ぐるいで、奈良に到着して、息も絶えだえになって、御物を拝見したということですが、まことにそれも結構なことでありますけれど、僕は死に物ぐるいの眼に会うことも猫になることも杓子になることも嫌いですから、ジャン・ポール・サルトルというフランスの新しい作家の小説を読んでおりました。「世界文学」という翻訳専門の雑誌の十月号にのった「水いらず」という小説でありまして、この小説は日本文壇にとっての新しい戦慄といっても過言ではないと僕はまァ思いました。日本の文学は結局生活の総決算の文学であり、人間を描いても、結局心境のありのままを描くだけですが、ジャン・ポール・サルトルのこの「水いらず」という小説は人間の可能性を描いております。しかも、サルトルの提唱しているエグジスタンシアリスム[#「エグジスタンシアリスム」は底本では「エグスジタンシアリスム」]――つまり実存主義は、戦後の混乱と不安の中にあるフランスの一つの思想的必然であります。このような文学こそ、新しい近代小説への道に努力せんとしている僕らのジェネレーションを刺戟するもので、よしんば僕らがもっている日本的な文学教養は志賀さんや秋声の文学の方をサルトルよりも気品高しとするにせよ、僕はやはりサルトルをみなさんにすすめたい。
 そして、僕は近代小説は結局日本の伝統小説からは生まれないという考えの下に、よしんば二流三流五流に終るとも、猫でも杓子でもない独自の小説を書いて行きたいと、日夜考えておりますので、エロだとかマルクスだとか、眼を向いてキョロキョロしている暇はないのであります。以上「エロチシズムと文学について」という課題で僕は言いたい山ほどの中で、一番いいたいことです。



底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「NHKラジオ放送」
   1946(昭和21)年9月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月30日作成
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