っていらっしゃるかも知れませんが、実は猫と杓子が日本をこんなことにしてしまったのです。猫と杓子が寄ってたかって、戦争だ、玉砕だ、そうだそうだ、賛成だ賛成だ、非国民だなどと、わいわい言っているうちに、日本は負け、そして亡びかけたのです。
猫であり、杓子であるということは、つまり自分の頭でものを考えないということであります。これは日本人の持っている悪癖――つまり悪い癖でありまして、すぐ他人の頭でものを考えたがる。俗に「鰯の頭も信心から」といいますが、あんまり他人の頭ばかり借りてものを考えたり、喋ったり、書いたりしておりますと、しまいには鰯の頭まで借りるようになってしまいます。いや、僕は冗談に言っているのではない。真面目に言っているのです。
他人の頭でものを考えるというのは、つまり他人の着物を借りてまるで自分の着物のような顔をするということで、いいかえれば思想の借着であります。人類はじまって以来、多くの天才は僕らが借りるべき多くの着物を残してくれました。僕らは借着にことを欠きません。それに、借着をすれば、手間がはぶけて損料を払うだけでモーニングだとか紋附だとか[#「紋附だとか」は底本では「絞附だとか」]一応もっともらしく立派に見えます。苦心惨澹して、手織りのみすぼらしい[#「みすぼらしい」は底本では「みすぼらいし」]貧弱な着物を着ているよりは、どうも昔の着物の方が立派にはちがいありません。だいいち天才が残してくれたものですからね。しかしいくら敗戦して焼け出されたとしても、せめて思想の借着だけはしたくないものです。自分で考えたことを、自分の言葉で語りたいものです。すくなくとも文学者というものは猫でも杓子でもないのですから、世間の常識とか定説、オイソドックス、最大公約数的な意見、公式、規格品、標準、権威――そういったものを、よしんばそれが世の風潮に乗っている思想であっても、自分の頭で自分が納得できるまで疑うべきであります。そういうものじゃないでしょうか。
例えば、今日、古い日本は亡びて、天皇をはじめあらゆる過去の権威に対する挑戦――といいますか、つまり疑問の提出が活発に行われましたが、しかし、文学の上では権威への挑戦が殆んど忘れられています。明治以後いまだ百年もたっていないのに、多くの大家が文豪と称せられ、古典の仲間入りをして、文学の祭壇にまつりあげられ、この人たちの片
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