か、大阪の南署から検事局の拘置所へ送られていた。チマ子は差し入れに行った。貴子はきびしく叱りつけ、銀造を見る眼は赤の他人以上に冷たく白かった。チマ子は家出した。
 浴衣に兵児帯、着のみ着のままで何一つ持たず飛び出したのである。環境のせいか、不良じみて、放浪性も少しはある娘だったから、貴子は箱入り娘の家出ほど騒がなかったが、しかしひそかに心当りは探してみた。そして空しく十日たっている……。
 と、そんな事情をありていに章三に言ったものかどうか。貴子は素早く浴衣をひっ掛けて、
「チマ子お友達と東京よ。芸術祭とか何とかあるんでしょう。気まぐれな子だから……」
 困っちゃうわと、東京弁で早口に言うと、章三は、
「ふーん。東京ならおれも行けばよかった。――いや、用事はあれへん。ただ、あの子と行くのがたのしいんや。どや、あの子おれにくれんか」

      六

 貴子ははっとした。
「チマ子をくれって、あなたあの子に……」
 惚れてるの――と、あとの方はあわてて冗談にしてしまった。
「阿呆ぬかせ。――しかし、あの子は面白い子や。おれの顔を見ると、いつも白い侮辱したような眼で、にらみつける。おれはああいう眼を見ると、なんぼでも、おれの財産ありったけでも、出して、おれの自由にしたい――いう気になるンや。あはは……」
 章三は三十五歳に似合わぬ豪放な笑いを笑ったが、しかしふと虚ろな響きがあり、おまけに眼だけ笑っていなかった。それが油断のならぬ感じだ。
「金さえ出せば、女はものになると……」
 思ってるのねと、貴子は浴衣の紐を結んだ。
「君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな」
「いやにからむのね」
「いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや」
「女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ」
「つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ」
「あら。あなたは別よ」
「別って、どない別や」
「カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ」
 窓の外は加茂の川原で、その向うに宮川町の青楼の灯がまだ眠っていなかった。
「――このお部屋、宮川町からまる見えね」
 いやねえ――と、わざと若い声を出しながらスタンドの青い灯だけ残して、あかりを消したが、章三はいつになく執拗になおもからんで、
「しかし、憎まれる方がおれはうれしいよ。好かれるためなら、何も二百万円君に貸すもんか。女は佃煮にするくらいいる。東京では紅茶一杯の女もいるということやが、女の地位は上った代りに、相場は下ったもンや。その点、おれに担保、証文、利子、期限なしで二百万円出させた君は大したもンや。しかし、おれが君に金を出したのは、実は君から薄情冷酷という証文を取りたかったからや」
 そして、にやりと冷笑をうかべて貴子を見た。自尊心のかたまりのようなその眼を貴子は全身で受けとめていた。章三はつづけた。
「――君は、男というものは見栄坊だから、虚栄心をつつけば、けちと思われるのがいやさに、しぶしぶ金を出すものと心得ているらしいが、しかしおれはしぶしぶじゃなかった。喜んで出したぜ。君のような女には、そうするのが一番君を……」
 侮辱することになるのだと、言いかけた時、玄関から若い女の声が聴えて来た。
「乗竹さんいらっしゃるでしょうか」
 陽子だった。

      七

 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。
 しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。
「聴いたような声だな」
 という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。
「乗竹というと、あの乗竹……か」
 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、
「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」
 と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。
「来てるのか」
「いやな奴よ」
「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」
「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」
 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。
 章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。
「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」
 章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。
 そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。
「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」
「履物どこですの……?」
「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」
「帰ります。履物出して下さらないの?」
 章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。
「あ」
 女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。――陽子だった。


    夜の花

      一

 四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。
 田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。
「あたしはいつもあの男から逃げている!」
 小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。
 陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。
 陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。
 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。
 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。
「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」
 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」
 咄嗟に意味は判らなかった。
「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」
「歩いているんです」
 むっとして答えると、巡査もむっとして、
「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」
「家へ帰るんです」
「家はどこだ……?」
「京都ホテルの裏のアパートです」
 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。
「今時分まで、何をしとった……?」
「お友達のお通夜に行っていました」
「商売は何だ……?」
「お友達はダンサーです」
「お前の商売をきいとるんだ」
「ダンサーです」
「なぜ、はだしになっとるんだ……?」
 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。
「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」
「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」
「お友達のアパートへ預けて来ました」
「どこだ、そのアパート」
「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」
「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」
 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。
 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。

      三

 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。
「違います。あたしは……」
 商売女ではないと、陽
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