葉に、ぷイと腹を立ててしまうほど、ヒステリックな女になっていた。
「あ、芳ッちゃん、どこへ行くんだ」
 待ってくれと、京吉は肩を並べて歩き出したが、歩いているうちに、芳子の方が、
「どこへ行くの……?」
 と、きいてきた。
「どこだか、おれ知るもンか」
 あてがなかったのだ。そのうちに夜が来て、雨が降り、京極の知合いの店で、半時間たったら、返しに来るといって、借りた一つの傘の中に、もう四時間もはいっていた。
「ほんとに、あたしどうしたらいいの……?」
「おれ知るもンか」
「どこか、泊るところあるの……?」
「おれ知るもンか」
 やがて、もうそんな話よりも、ダンスだとか映画だとか、とりとめない話をしながら、あてもなくトボトボと歩いていたが、しまいには話の種もつきて、黙々と白い雨足を見つめながら、惰性のように歩いていた。
 芳子は、京吉が祇園荘へ行く自分をとめたのは、グッドモーニングの銀ちゃんに頼まれたからだと早合点して、京吉に駄々をこねて困らせてやることが、せめてもの腹いせだと、ダニのようについて離れなかったのだが、だんだん夜が更けて来ると、もう京吉と離れるのが寂しかった。雨も冷い。
 京吉もまた、芳子を持て余しながら、しかし、もともと心の寂しい男だった。といって、芳子と宿屋に泊ることは、困るのだ。夜通し雨の中を歩こうか、今夜はどこへ泊ろうか――と、思案しながら歩いていると、ふと陽子のことが頭に泛んだ。

      四

 そうだ、陽子のアパートへ泊めて貰おうと、京吉の顔はにわかに生き生きした。
 芳子は坂野の所へは帰りたがらず、グッドモーニングの銀ちゃんのアパートへも連れて行けないとすれば、もう田村へ連れて行くか、どこか宿屋に泊るより仕方がなかったが、貴子の居候の自分が、よしんば何の関係のない女にしろ、まさか連れて行くわけにもいかない。
 といって、宿屋に泊れば、どんなことになるか、グッドモーニングの銀ちゃんの二の舞を演ずるようなことはないと言い切るには、今夜の京吉はあまりに人恋しかった。芳子もまた、一度堕落してしまった以上、もはや固い女で通せず、それにもともと浮気っぽいレヴューガール上りの裸体を、小指に触れられるのと大して変りのない簡単さで、京吉に許してしまいそうだった。銀ちゃんへの腹いせもあるだろう。いずれにしても、今夜の二人は危なそうだった。夜も更け、雨も降っている。しかし、それでは坂野にも銀ちゃんにも合わす顔はないし、よしんばそんなあやまちがないとしても、二人で宿屋へ泊ったとすれば、いいわけの仕様はあるまい。
 といって、芳子を宿屋へ送って、自分ひとり雨の中を、田村へ帰って行くというのも、気の遠くなるような寂しさだった。
 だから、陽子のアパートへ二人で泊めて貰うというだしぬけに泛んだこの思いつきは、京吉の心に灯をともしたようなものだった。そして、この思いつきは、やはり二十三歳の孤独な青年の、空ッぽの頭の触感が探り当てたものだった。陽子の所だったら、芳子とのあやまちも起らず、坂野や銀ちゃんに知れてもいいわけは成り立つし、それに陽子の所で一夜を過すというのは、何か自虐的な快感だった。
 陽子は昨夜誘惑されたのだ――と、京吉は信じ込んでいた。その陽子の所へ、女を連れて泊りに行く――これは陽子へ投げつける京吉の一種の軽蔑であり、悔恨のようなものだ。
「どんな顔をするか、おれ見てやりたいや」
 と、京吉はふと眉をひそめて呟きながら、女と二人で行けば陽子も泊めてくれるだろうし、おれも正々堂々と泊まれると、もう芳子をだしにする考えが、足を速めた。
「どこへ行くの……?」
「おれの知ってる女の所だよ」
「女の……?」
 と、芳子は横なぐりの雨に、ひやりと首筋を打たれた。
「ほかに泊るところねえや。ねえ、芳ッちゃん、いいだろう、アベックで泊めて貰おうよ」
 アベックで――という言葉に芳子は微笑して、
「泊って……それから……明日はどうするの……?」
 ふと甘ったれた声を、京吉は、
「おれ知るもんか。明日は明日の風が吹くよ」
 と、突っ放して、やがて陽子のアパートを探して歩いた。やっと見つかり、陽子の部屋をたたいた。
「陽子、おれだよ。おれ泊るところねえんだよ。泊めてくれよ」
 部屋の中では、夜具の上へはっと起き上ったらしい陽子の気配があった。

      五

 陽子はぐったりと疲れて、眠っていたのだ。昨夜一晩十番館のホールで踊って、クタクタになったその足で乗竹侯爵に会いに木屋町の田村へ行き、挑まれてはだしで逃げ出し、闇の女と間違えられて、留置され、夜通し眠れなかった。おまけに、釈放されると、すぐ警察の草履を借りて清閑荘に会いに行き、その帰りは茉莉のアパートへ顔を出し、千葉の田舎から出て来た茉莉の肉親を慰めたり、葬儀の相談をしたりして、アパートへ帰ると、もう自炊する元気もないくらい疲れた体を、古綿を千切って捨てるように、夜具の上へ投げ出した途端に、もう夢の世界だった。
 夢の中で、京吉と踊っていた。ぐっしょりと汗をかきながら、踊っていた――と思ったのは、しかし、ふと眼をさましてみれば、盗汗だった。半年近いホール生活で、すっかり体をこわしたのだろうか、こんなに盗汗をかいてるわ――と思う前に、なぜ京ちゃんと踊っている夢を見たのだろうと、何か自分でも思いがけぬ触感のリズムが伴う胸苦しい甘さの後味に驚いていた。
 あたし京ちゃんと踊りたいのかしら、あたし踊りたい人なんかいなかったのに。そんな下品なこと考えてみたこともなかったのに。いいえ、夢にも思ったこともないのに。あたしは男の人と踊っても、ただ石になっていたのに。石には触感はない。あたしの触感があたしを裏切るなんて。あたしこんな下品さがあるなんて。おや、あの匂いは何だろう。
 アパートの中庭の金木犀の花が、雨に濡れて匂っていたのだ。その匂いをふっと甘く感じた途端に、再び陽子は眠りに落ちていた。
 浅い眠りのその中で、陽子はまた踊っていた。京吉と踊っていたのだが、耳の傍で自分の名を呼んでいるのは、木崎だった。木崎と踊っているのだった。
 はっと眼をさますと、部屋の外で声がしていた。京吉の声だと思った途端、ほのぼのとしたなつかしさがふっと胸に来たが、しかし、
「ねえ、泊めてくれよ。ねえ」
 という、いつもの声に、思わずその胸をかき合わせていた。
「駄目よ。約束がちがうわよ」
「そんなこと言うなよ」
 と、部屋の外の声が言った。
「だって土曜日だといったじゃないの」
 土曜日には泊めてあげる――と、はっきり約束したわけではなかったが、それを言った。
「だって、おれ泊るところねえんだよ。おれ一人じゃねえんだよ。二人だよ。女と一緒だよ。泊めてくれよ」
「あたし帰る」
 芳子は何思ったのか、急に階段を降りかけた。
「あッ、芳ッちゃん、待ってくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」
 その頃四条河原町の雨の中を、二人の男がぐでんぐでんに酔っぱらって、肩を組みながら、よろよろと歩いていた。坂野とグッドモーニングの銀ちゃんだった。

      六

「銀ちゃん、あたしゃアもはや一滴も駄目でさア」
 もう飲みまわるのはよしにしよう――と、坂野は眉毛まで濡れ下ったびしょ濡れの顔を、グッドモーニングの銀ちゃんの肩へより掛らせながら、ひょこひょこ歩いていた。
「阿呆ぬかせ。今夜は夜通し飲むんだ」
 銀ちゃんも情ない足取りだったが、
「――夜が明けて、グッドモーニングと挨拶かわし、盞かわしてグッドバイ……ってとこまで飲むんだ」
 都々逸の調子を張り上げながら、執拗に坂野をはなさなかった。
 祇園荘で二(リャン)チャン打つと、坂野が三千点ほど負けで、千点二百円だったから、六百円坂野が払おうとすると、銀ちゃんは受取らず、じゃその金で飲もうということになって、あちこち飲みまわって夜が更けたのだが、なお、なけなしの金をたたいてずるずると梯子酒を続けようというのは、飲み足らぬというよりは、むしろアパートへ帰るのがいやだったからだ。アパートへ帰れば、芳子がいるかも知れない。昼間セントルイスでは約束をすっぽかしたが、もう亭主の所を飛び出して来た芳子には自分の所しか行く所がない。すっぽかされてみれば一層アパートへ行って、根気よく自分の帰りを待っているだろう。
 そう思えば、やはり自分が手をつけた女だけにふびんだったが、これからの芳子の身の振り方、おなかの子の始末、女の愚痴、涙、すすり泣き……、泣くなと引き寄せて一応可愛がってやれば、女というものはからだにごまかされてしまう……とはいうものの、芳子のからだは香水でも消せぬいや[#「いや」に傍点]な臭い[#「臭い」に傍点]がそんな時漂って……。
「かわいそうだが、あれを思うとたまらねえや」
 それにげんに一緒に飲み歩いている亭主の坂野に別れた足で、芳子のいるアパートへ帰れるものか。おめえの女房貰ったぜともいえず、といって、おめえの女房とこんなことになったんだと白状も出来ず、しかし、知らぬ顔も出来ず、何かしら言いそびれたままに、ずるずる坂野をひきとめていたのだ。
「あたしアもう帰るよ。眠くてたまらんです」
「阿呆ぬかせ、女房の逃げたアパートへ帰っても仕様があるまい」
 銀ちゃんは自虐的な口を利いて、
「――眠けりゃ、ヒロポン打つさ」
「それもそうでやしたね。――じゃ、早速一発!」
 坂野は軒下に身を寄せると、注射のケースをポケットから取り出して、立ったまま器用にヒロポンを注射した。そして、腕を揉みながら、さア行こう、しかし、アルプはごめん謝りの介だよと、銀ちゃんの背中を抱いた。銀ちゃんは通り掛った人力車を停めた。
「飲ませる所へ案内しろ。但しひでえボリ屋へ連れて行ったら、キャッキャッだよ」
 一つの俥へ無理に二人乗りして、野郎の相乗りはキャッキャッだが、おめえいい尻つきをしてるじゃねえかと銀ちゃんは膝の上に坂野の体をかかえて、ふと幌窓の外を眺めた途端、雨の中を一人トボトボ歩いている女の姿を見て、おやっと思った。芳子だった。

      七

 思えば今宵の京都の雨は、わが主人公たちをふと狂気めかせるために、降っていたのであろうか。頽廃の土曜の夜よりも、彼等の心を乱れに乱れさせた日曜の夜の底を、泥ンまみれにかきまわす雨であった。
 セントルイスの夏子も泥にまみれ、カラ子の京吉恋しさもただならぬ激しさであった。坂野も銀ちゃんも酒に乱れて行き、京吉の夜歩きも常規を逸していたが、今夜の陽子もいつもの陽子ではなく、妖しく胸騒いでいた。
 そして、坂野の細君の芳子も何か狂気じみていた――その証拠には、折角京吉について行った陽子のアパートから、急に飛び出して、呼びとめる京吉の声を雨の背中に聴き残しながら、町角を走って折れたが、やがて気の抜けた歩き方に重くうらぶれていた。
 京吉につきまとっていたのは、女の意地からとはいうものの、一つにはやはり女にとっては一人ぽっちになるのが一番辛いからであろう。それだけに、京吉と陽子の親しさを女の勘でかぎつけたことほど芳子をみじめにしたことはなかったが、いきなり、飛び出したのは、自分でも思いがけぬ嫉妬であろうか。しかし、一人ぽっちで夜の町をさまようという寂しさの中へ、わざと自分を虐めて行く女心は、もはやただならず狂気めいていたのだ。
 そして、おなかの子に障ることを忘れて、傘も持たず、びしょ濡れの体をなお雨の鞭に任せながら、うらぶれて歩いているそんな芳子の姿を、グッドモーニングの銀ちゃんは人力車の上から見た途端、はっと胸を突かれて、同じ人力車に相乗りしている坂野の手前がもしなかったとすれば、呼びとめたい程のなつかしさにしびれ、もはや芳子のあわれさは、芳子が持っているどんな女のいやらしさも、銀ちゃんの心から消してしまっていた。
 が、坂野は芳子には気づいていなかったようだし、まさか呼びとめも出来ず、みるみる遠ざかって行くうちに、銀ちゃんはふと、
「ひょっとすれば、もう二度とあの女に会えないのではなかろうか」
 という予感に襲われた。そして、夜具の中に見つかった
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