かし、それが何であるかは、陽子には判らない。
「侮辱なんか僕はした覚えはない」
木崎はぽつりといった。
「――あなたは勘違いしているんだ」
「じゃ、どうしてあんなことをおっしゃるんです」
「…………」
「あなたは、なぜダンサーという職業を軽蔑されますの……?」
「軽蔑はしていない。しかし、もし軽蔑しているように聴えたとしたら、それは……」
僕があなたを好いているためだ――といいかけた時、天井から蜘蛛がするすると陽子の頭の方へ降りて来た。
木崎はいきなり手を伸ばして、蜘蛛を払おうとした。
陽子はぎくっと身を引いた。
「蜘蛛です」
木崎はひきつったように笑い、もう、陽子を好きだということは思い止った。
女たらしになってやろうか――などという心にもない思いつきは、女を軽蔑する最も簡単な方法だったが、しかし、そんな思いつきの中にも、陽子だけは、たらしたくないという気持はあったのだ。
そんな木崎の気持は、陽子にすぐ通じたのか、もう陽子の声も安心したように落ちついて、
「木崎さん、わたくしの願いをきいていただけます……?」
「ききましょう」
木崎はもう素直な声だった。それがどんな願いであろうと、もう陽子にはその願いをききとどけてやることが、木崎のせめてもの愛情の表現であった。触れたいということのない愛情であった。
「実は……」
と、陽子もチマ子のことづけを伝えて、
「――警察へそういって助けてやっていただけます……?」
木崎はだまって、うなずいた。やがて陽子は起ち上った。
「おや、もう……」
帰るんですかと、木崎の顔には瞬間さびしい翳が走った。
「いずれまた……」
陽子は階段を降りて行きながら何かしらもう一度このアパートへやって来ることがありそうな気持に、ふっとゆすぶられていた。
キャッキャッ団
一
「間抜けたポリ的(巡査)もあったもんだ。おれを樋口だと思いやがるんだよ。円山公園感じ悪いよ。うっかり女の子連れて歩くと、ひでえ眼に会う」
祇園花見小路のマージャン倶楽部「祇園荘」で、パイを並べながら、言っていた京吉もやがて鉛のように黙り込んでしまった。
相手はグッドモーニングの銀ちゃん、投げキッスの泰助、原子爆弾の五六ちゃん――この三人は、マージャン倶楽部専門の不良団で、キャッキャッ団と称し、いつも三人一組で市中のマージャン倶楽部でとぐろを巻いており、いいカモが来れば、三人しめし合わせて、賭金を巻き上げるのだった。
京吉はキャッキャッ団の手を知っていた。しかも、キャッキャッ団を相手に一勝負しようという気になったのは、マージャンの腕への過信であろうか。それとも、インチキに挑戦して行く破れかぶれの賭のスリルだろうか。
京吉はたちまち旗色が悪くなって行き、イーチャンが済む頃には、もう四千もすっていた。
「京ちゃん、やけに大人しいね。ウンとかスンとか、音を上げたらどうだ」
グッドモーニングの銀ちゃんがにやにやしながら言った。
「バクチと色事は黙ってしなきゃア、意味ないよ」
京吉はそう応酬していたが、しかし顔色は蒼白になっていた。
「――バクチは負けるほど、面白いんだ」
半ば自分に言いきかせながら、京吉はガメっていたが、テンパイになった途端に、いつも上りパイを押えられていた。
北北(ペーペー)の風が廻って来た時、京吉に北が二枚あった。紅中(ホンチュン)が二枚。うまく行けば、スー(四)ファンの、満貫(マンガン)に近い手で上られる。
「しめたッ!」
と、叫びながら、京吉は投げキッスの泰助が捨てた北のパイをポンして、泰助に向って、
「チュッ!」
と、キッスを投げた。
その時倶楽部の会計で金を払っている若い男の革の財布が、京吉の眼にはいった。
その財布に見覚えがある!
「あッ!」
おれの財布だと、京吉が起ち上ろうとした途端、グッドモーニングの銀ちゃんが紅中(ホンチュン)を捨てた。
「ポン!」
京吉は威勢よく声を掛けて、
「――これは貰わずに置くものか」
パイを拾いながら、もう財布どころでなかったが、急に隅の方のソファに坐っていた靴磨きの娘を呼んで、何ごとか囁いた。
二
「オー・ケー」
娘は弾んだ声でうなずくと、いそいそとその男のうしろから祇園荘を出て行った。
「おや、邦子さん、消えちゃったね」
グッドモーニングの銀ちゃんが言った。
「いえ、なに、ちょっと、そこまで煙草を買いに……。え、へ、へ……」
「御機嫌だね」
「絶対ですワ」
北北(ペーペー)と紅中(ホンチュン)をポンして、四(スー)のファンのテンパイになった京吉は、もう掏摸どころではなかったのだ。
何も娘にいいつけて、尾行させたりしなくても、一言「掏摸だ!」と騒ぎ立てれば、もうそれでよかったのだが、しかし、せっかくの満貫(マンガン)直前の気分を、そんなことでこわしたくなかったのだ。親の死目に会えぬマージャンの三昧境であった。
「五万」か「八万」のパイで上りだった。しかし、キャッキャッ団の三人はさすがに「万」パイは警戒して、自分たちの手をくずしてまで「万」パイを押えていた。だから、京吉はツモって上るよりほかに仕方がなかった。
「よしッ、ツモってみせる!」
京吉の眼はギラギラと輝いていた。ダンスを踊らせても、玉を突かせても、マージャンを打たせても、何をやらせても、京吉は天才的な巧さを発揮したが、とくにマージャンの場合、京吉の巧さとは、いざという時には、無理なパイでもツモってみせるという闘志と勝負運の強さだった。
そして、そんな瞬間だけ、生き甲斐を感ずるのだった。
二十三歳という若さでありながら、何ごとにも熱中することが出来ず、倦怠した日々を送ってる京吉にとっては、日々の行動は単なる気まぐれでしかなく、たとえば、靴磨きの娘を連れての放浪や東京行きの思いつきも、マージャンで旅費を稼ごうという思いつきも、その相手にわざわざキャッキャッ団を選ぶという思いつきも、みんな、どうでもいい、気まぐれに過ぎなかったのだが、一たんパイのスリルの中にはいってしまうと、もう、それだけが京吉の青春であり、何ごとも忘れて熱中出来たのだ。
東京行きの旅費が稼げるかどうかというようなことはもう問題ではなかった。何点すってしまうか、あとのイーチャンで取り戻せるかどうか、もし負ければ、無一文の自分には賭金が払えないが、どうすればいいだろうか――など、そんなことは、念頭にはなかった。
「五万か八万をツモってみせる!」
これだけしか考えていなかった。
「流しちゃえよ。キャッキャッとね」
と、投げキッスの泰助が言った。
「いや、おれツモるよ。ツモれや紫、食いつきゃ紅よ。色できたえたこのキャッキャッだ」
京吉はそうふざけながら、しかし、表情だけはさすがに固く、パイを取って来ると、くそッと力を入れてその表を撫ぜた。
三
京吉はパイをツモる時に、気合を掛けるようなことはめったにしなかった。が、ここぞという一枚にだけは「くそッ!」と、声に出した。そして、そんな時は、もうどんなパイも思いのままのパイに変えてみせるという魔術使いのようなインスピレーションに憑かれており、狙いはめったに外れなかった。自信がなければ、気合は掛けなかったのだ。追い込んで、抜く自信がある時だけ、ゴール直前で使う名騎手の鞭のような気合であった。
「くそッ! 五万!」しかし、五万でも八万でもなかった。
「なんだ、紅中(ホンチュン)か!」紅中ならカンになっており、リンシャンカイホウ(同じパイが四枚の時、もう一度ツモってそれで上る上り方)のチャンスがある。
一同ははっと固唾を呑んだ。グッドモーニングの銀ちゃんは、煙草の火のついた方を口の中に入れて、火を消してしまった。弁士上りのグッドモーニングの銀ちゃんは、ひとの二倍は唇が分厚かった。
京吉はもう黙って、手の汗を拭くと、すっと手を伸ばして、リンシャンパイを掴んで、ギリギリと掻くようにパイの表を撫ぜた。見なくとも、触感だけで判る。五万だった。京吉はがっかりしたように、パイを倒した。
「おれ知らねえよ。満貫だよ。五八(ウーパー)のトイトイだ。ウーファンだ。満貫だろう。意味ないよ。キャッキャッだ。怒るなよ。おれ辛いよ。感じ悪いだろう。おれのせいじゃないよ。怒るなよ」
とりとめもないことを、ひとりペラペラ喋っていると、ふと孤独の想いがあった。
「ひでえキャッキャッだよ。おれも随分キャッキャッは見て来たが、おたくのようなキャッキャッははじめてだ。こうなりゃ、おれもやけだ。五六ちゃん、おれたちもキャッキャッで行こうよ」
グッドモーニングの銀ちゃんがガラガラとパイをかきまぜながら言うと、祇園荘の女が、
「キャッキャッって、一体何のことです……? はい、満貫の景品!」
卓子へ寄って来て、景品の煙草を置くと、何気なく京吉の肩へ手を載せた。
「揉んでくれ。おれも年取ったよ」
京吉はふと女の顔を覗きこんで、ほう、ちょっといけるな――。いきなり、
「――今夜一緒に寝ようか。キャッキャッとは即ち寝ることだよ」
「知りまへん」
女は赤くなって逃げて行った。
「いやか。いやで幸いだ。義理何とかは三年寿命が縮むと来てやがらア」
パイを並べながら、もう軽佻浮薄な口を利いている、このとりとめなさは一体何であろう。一度満貫のスリルを味わってしまえば、もう交尾を終った昆虫のように、緊張は去り、ヒロポンの切れ目にも似た薄汚い粉だらけのような黄色い倦怠が来ていたのだろうか。
「ところがまた、そういうのに限って、よく孕みやがるんでね。ひでえ目に会うたよ。いやいや口説いたんだよ」
「いやいやねえ……?」
「はい。いやいや口説きました。孕みました。キャッキャッですワ。人妻ですワ。亭主にアコーディオン弾きを持つぐらいの女だから、アコーディオンみたいにすぐ腹のところがふくれやがる」
銀ちゃんがそう言った途端京吉はおやっとパイから手を離した。
四
「だけど、銀ちゃん、それ、本当にあんたの子なの……? 坂……」
野の子じゃないか……と、京吉はうっかり坂野の名を口にしかけたが、あわてて、いえさ、亭主の子かも知れないぜ――と、言い直した。
「余計なお世話だい。女はおれの子だと言ってるんだ。まさか、亭主の子だとは突っ放せまい。おれもグッドモーニングの銀ちゃんだ」
ひょんな所で、グッドモーニングの銀ちゃんを利かせたが、もともと銀ちゃんは京極の盛り場では、本名の元橋で知られた相当な与太者であった。しかし、銀ちゃんは今では元橋という名を捨てて掛っている。与太者としての顔を、敗戦後のどさくさまぎれの世相の中で利かすことをむしろ軽蔑し、わざとグッドモーニングの銀ちゃんなどという安っぽい綽名を作って、自嘲しているのだった。
銀ちゃんにいわせると、与太者というものは、結局バクチ打ちで、女たらしで、宵越しの金を持たぬ、うらぶれた人種だというのである。ところが、銀ちゃんの仲間の多くは、闇市のボスになり、キャバレーと特殊関係を作り、またたく間に産をなして、もはや宵を越さずに使おうと思えば四十万円、百万円の別荘を買うよりほかに方法がない。げんに買った連中がいる。
敗戦当時、彼らはよれよれの国民服に下駄ばきだった。しかし、半月ばかりすると、彼等は靴をはいていた。五日たつと、ジャンパーを着ていた。三日たつと、りゅうとした背広を着て、革の鞄をさげていた。間もなく髭をはやし、目もさめるような美人を連れてホールで踊っていた。そして、ついに別荘を買ったのである。ところが銀ちゃんは、
「与太者が企業家になって、別荘を買うとは何たるキャッキャッの世の中だ。別荘から出て来たと思ったら、もう別荘を買ってやがる」
と、言いながら、一日一日影うすく落ちぶれて行って、子分も投げキッスの泰助と原子爆弾の五六ちゃんの二人っきり、わけのわからぬキャッキャッ団を作って、
「――与太者はバクチで稼げばいいんだ」
マージャンクラブに出没していたが、大したカモも掛らず、宵
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