いらん。茉莉は事務所の者が見ている」
と、言われると、もはや陽子はマネージャーの言葉にはさからえなかった。
「京ちゃん、君も行って、踊ったらどうかね」
「おれか。冗談言うねえ」
と、京吉は茉莉の蝋ざめた顔を見ながら、マネージャーに言った。
「――病人と踊れるもんか。――といって、ほかのダンサーとじゃ、茉莉にわるいや。今夜はおれ、茉莉に借り切られてるんだから」
その言葉を、陽子は背中で聴くと、
「……? 茉莉があんたを……?」
と、振り向いて、京吉の傍へ添って行こうとしたが、しかし、事務室では詳しい話は聴けない。それに、マネージャーの眼がせき立てている。
陽子は眼まぜで誘って、京吉を事務所の外へ連れ出すと、
「茉莉があんたを借り切るって、一体何のこと……?」
と、京吉の長い睫毛の横顔を覗きこんだ。
「昨日の昼間、おれ京極で、ひょっくり茉莉と会ったんだよ。茉莉ベソをかいてやがったから、だらしがねえぞ、ゴムまりが泣くぞ。こう言ってやると、奴さん、いきなりおれの手を掴んで、――おれ、照れたよ。京極の真中だろう……?」
「ふーン。で……?」
「京ちゃん、明日あたいと踊ってくれ、明日だけは誰とも踊らずに、一晩中あたい一人と踊ってくれ――と言うんだ。じゃ、踊ってやらア。その代り、明日、おれ茉莉ン家《ち》で泊めてくれるかい。――うん、泊めてあげるッてんで、借り切られたんだよ」
「あんた、茉莉が好きなの……?」
「好きでもきらいでもないよ。好きな女は一人だけいるが、口がくさっても言えない」
京吉はふと赧くなった。陽子も耳を赧くして、
「じゃ、どうして茉莉の所で泊るの……?」
「だって、今日――つまり昨日の明日の今日は土曜日だろう。おれは土曜の晩は泊る所がねえんだよ」
「あらッ、どうして……? 土曜日の晩……」
茉莉のことを訊こうとしているうちに、いつか京吉のことを訊いている自分の好奇心を、陽子はわれながら、はしたないと思った。
六
「土曜日の晩は、ママの旦那が来るんだよ。だから……」
京吉はまるで他人事のような口調で答えた。
「ママ……って、あんたの……お母さん……?」
と、陽子がきいた。京吉は急に笑い出した。
玄関のボーイが振り向いた。
その視線を感じて、陽子ははじめて、立ち話の長さに気がつき、
「ハバハバ行きましょう」
と、小声で誘って、ドレスの裾を持った。
「おれ、お袋なんかねえよ」
と、京吉もロビイを横切って、
「――おれのいる家の女のことだよ。みんな、ママ、ママと呼んでるから……」
おれもそう呼ぶんだ――というその言葉は、しかし、半分は聴きとれなかった。
バンドの騒音が、ホールの入口に近づいた二人の耳に、いきなりかぶさって来たのである。
「ママお二号さんなの……?」
「うん。旦那は土曜だけ来るんだ。おれ居候みたいだろう。だから、旦那に見つからない方がいいんだ」
京吉は聴えるように、ぐっと体を近づけていたが、ホールの中へはいると、陽子は何思ったのか、いきなり京吉からはなれて、
「あんた、じゃ、ママの燕……? いやねえ」
不潔だわ――と、顔をそむけた拍子に、ホールの奥の朱塗りの階段が、いつもより毒々しい色で眼に来た。
ふと、カメラを持っていた木崎のことが、頭をかすめた。陽子の眉は急に翳った。
「えっ……?」
丁度演奏台の傍をすり抜けている時だったので、京吉には聴えなかったらしい。
「聴えなかったらいいわ」
顔を見ずに、陽子は疳高く言った。
「燕だというんだろう……? まさか。ママは丙午だよ。大年増だよ」
と、京吉は二十三歳に似合わぬませた口を利いた。
「いいじゃないの。どうせ年上ならいっそ……」
「二十違っても……? あはは……。まるで怪奇映画だ。おれの趣味じゃないよ」
「どうだか……」
「どうして、そんなにこだわるんだ」
京吉は陽子の顔を覗きこんだ。
凛とした気品に冴え返った、ダンサーにあるまじい仮面のような冷やかな顔が、提灯のピンクの灯りに染められて、ふと臈たけたなまめかしさがあった。
「だって、不潔じゃないの。燕だなんて。もし燕だったら、断然絶交よ」
「じゃ、燕でなかったら、おれを泊めてくれる……?」
京吉はだしぬけにそう言った。
「えっ……?」
商売柄、口説かれることには馴れていたから、口説かれて、腹の立つことはあっても、もはや驚くことだけはしなくなっている筈の陽子だったが、思わず立ちすくんだ。
――とは、一体どうしたことであろう。
その時、一人の男が椅子に掛けたまま遠くから陽子に会釈した。
七
会釈したのは、乗竹侯爵の次男坊の、春隆という三十前後の青年だった。
「ねえ、泊めてくれる……?」
と、京吉が二十三歳の顔に、十代の無邪気な表情を浮べながら、くりかえす言葉をききながら、陽子は春隆に会釈をかえした。
乗竹春隆は「乗竹」をもじった「首ったけ」侯爵という綽名をつけられていて、十番館の定連だった。
十番館には、戦争犯罪容疑者として収容される前夜、青酸加里で自殺した遠衛公爵の三男坊が憂さばらしか、それとも元来享楽的なのか、時どき踊りに来るほか、数名の華族のいわゆる若様が顔を見せて、ある際物雑誌にその行状記を素ッ破抜かれた。
春隆もその槍玉に挙げられた一人だが、もともと鈍感なのか、大して参りもせず、むろんその雑誌の買い占めに走りまわったりせず、そんな金があればと、せっせとチケットを買って、十番館へ通っていた。
一つには、そんなことぐらいで謹慎するには、この「首ったけ」侯爵は余りにも陽子に首ったけであった。
彼は十番館以外のホールへは行かず、また、十番館では、陽子以外のダンサーとは踊らず、陽子が他の男と踊っている時は、大人しく一つ椅子に腰を掛けて、いつまでも同じ姿勢のまま、陽子の体があくまで待っているのだった。
今夜も茉莉が倒れたどさくさのあとへ来てみると、陽子の姿が見当らぬので、眼だけキョロキョロ動かせていたところだったらしい。
そして、やっと見つかって、いそいそと会釈したのだが、陽子が京吉と話をしているので、椅子を立つまでは、もう一本葉巻を吸わなくてはなるまい――という彼らしいエティケットで諦めた。
しかし、京吉にはそんなエティケットの持ち合わせは、耳かきですくう程もなかった。
「ねえ。泊めてくれよ」
「…………」
「今夜……。いけない……?」
「呆れたッ!」
と、言葉だけでなく、本当に陽子は呆れて、
「――どうしてあんたを泊めなくっちゃならないの……?」
「だって、土曜の晩という奴は、たいていの女は差し障りがあるんだよ。ママみたいに……。茉莉と陽子ぐらいだよ。土曜でも清潔なのは……」
「だって、あんた茉莉に借り切られてるんでしょう」
「だから、茉莉に万一のことがあった時の話さ。死んじゃったりしたら、おれ今夜泊る所が……。おれ、茉莉が死んじゃうような気が……」
「する……? あんたもそんな気がするの……?」
陽子は急に心配になって来て、
「――あ、そうだ。こんな話してないで、あんた事務所へ行って来てよ。お医者が来てるかどうか。ハバハバ行って見て来てよ」
そして、ホールを出て行った京吉の後姿を見送って振り向くと、眼の前に春隆が立っていた。
八
陽子は右の手のハンカチを左手に移して、
「…………」
春隆が差し伸べた手を握った。
それが春隆への、いや、自分に通って来るすべての客に対する、陽子のいつもの挨拶であった。
蓮ッ葉なダンサーのように、
「あーら。来たの」
と、いきなり飛びついて行ったり、ペラペラと喋ったり――そんなことは自尊心がさせなかった。ことに、東京の家を飛び出して、京都へ来た足でホールへはいった当座は、鉛のようにつんとしていた。貴婦人みたいに冷やかであった。美貌で品が良かったから、それがかえって魅力だと惹かれる客もあったが、たかがダンサーじゃないか、生意気なと、この頃は戦前にくらべると、ホールの柄も落ちていた。ダンサーの粒もまず気位からして下っていた。客を怒らせてはとマネージャーや先輩のダンサーが注意したくらいだった。
「じゃ、あたしよすわ」
注意されると、令嬢気質がいきなり頭をもたげかけたが、よしてしまっては生きる辛さに負けるようなものだと、やっと自分をおさえた。それに女ひとりでそれくらい新円のはいる商売は、もっと身を堕すか自分を汚すよりほかには、なさそうだ――と思い直しているうちに、少しはホールの雰囲気に馴れて、せめて握手ぐらいは出来るようになったのだ。
柄が落ちても、さすがにホールといえば、ほかの場所よりも客はきざっぽく気取りたがる。だから握手のきざっぽさもホールでは案外自然だ。
「――しかし、握手が素直な色気になっているのは、このダンサーぐらいだな」
と、春隆はお茶を引いているダンサーの横をすり抜けて、陽子をホールの真中へ連れて行きながら、思った。
容姿だけがそう思わせるのではない。昨夜誰かと泊った手で握手されるのは、むしろ頽廃めくが、陽子だけはその踊りっぷりのように固そうだった。
曲はアロング・ザ・ナバホ・トレール。
アメリカ西部大陸の滅び行くラテン系移民ナバホの郷愁が、涯しない草原の夜のとばりをさまようかのようなこの曲は、駒の響きを想わせる低音部のくりかえしが印象的で、ふと日本人のセンチメンタリズムをゆすぶるのだったが、陽子は粘って踊るほど柔くなかった。
ターンの時、相手の膝を自分の両股にぐっとはさんで廻るような技巧も用いず、それが陽子を処女らしく見せていた。
いや、京吉が土曜日すら清潔だと勘でかぎつけていたように、春隆――この乗竹侯爵の次男坊も、背中へ廻した手の感触で、この女はまだ一度も体を濡らしたことはないと、改めて直感すると、
「今夜こそこの女をどこかへ連れて行って……」
という想いに心も弾むのだった。
ついて来ればあとは自信はあるが、果してついて来るかどうか。いや、もしおれがとって置きの一言を言えば、もうおれの誘いを断り切れまい! その一言、春隆はいきなり言った。
「君、学習院の女学部だろう。そうじゃない……?」
「えッ……? はあ、いいえ……」
狼狽して、ターンした途端に、ホールの入口に佇んでいる京吉の姿が陽子の眼にはいった。陽子はどきんとした。
九
丁度その時、上海帰りのルミというダンサーが、自分と踊っていた闇ブローカーの浜田のでっぷり肥えた背中が、陽子につき当ったので、
「阿呆! シミイダンスの尻ばっかし振ってるさかい、衝突するねンし。プロ!」
プロちゃんで通っている浜田を、すれっからしの口で叱り飛ばしたが、その言葉は陽子の耳にははいらなかった。
それどころではなかった。春隆の思いがけない一言! そして京吉の顔色!
陽子は思わず京吉の立っているホールの入口の方へ、気を取られたが、春隆は急にまたターンしたので途端に見えなくなった。
春隆はやはり陽子が狼狽したのをみると、
「もうこの女はおれのものになったも同然だ」
という想いのズボンを、陽子の裾にさっと斬り込ませながら、鮮やかにターンして、
「君は、中瀬古さんのお嬢さんでしょう……?」
「違います」
「いや、隠してもだめです。妹の卒業アルバムで、僕は君の写真を見ましたよ」
「…………」
「学習院で妹と同じクラスだったそうですね」
「たぶん、他人の……」
「……空似だなんて、随分君らしくもないエスプリのない科白ですね。どうして君は……」
と、またくるりと廻って、
「――そんなに隠すんです。もっとも僕が新聞記者なら、隠す必要はあるかも知れない。君のお父さんはとにかく政界の第一人者ですからね。その中瀬古鉱三の令嬢が十番館のダン……」
「誰にもおっしゃらないで! お願いです」
「じゃ、やっぱし……」
そうだったのかと、春隆のトロンと濁った眼は急に輝いた。そして、何思ったのか、
「――僕あした東京へ行きます」
ぽつりと、連絡のない言葉を言って、陽子の耳
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