吉の後姿を見送って振り向くと、眼の前に春隆が立っていた。

      八

 陽子は右の手のハンカチを左手に移して、
「…………」
 春隆が差し伸べた手を握った。
 それが春隆への、いや、自分に通って来るすべての客に対する、陽子のいつもの挨拶であった。
 蓮ッ葉なダンサーのように、
「あーら。来たの」
 と、いきなり飛びついて行ったり、ペラペラと喋ったり――そんなことは自尊心がさせなかった。ことに、東京の家を飛び出して、京都へ来た足でホールへはいった当座は、鉛のようにつんとしていた。貴婦人みたいに冷やかであった。美貌で品が良かったから、それがかえって魅力だと惹かれる客もあったが、たかがダンサーじゃないか、生意気なと、この頃は戦前にくらべると、ホールの柄も落ちていた。ダンサーの粒もまず気位からして下っていた。客を怒らせてはとマネージャーや先輩のダンサーが注意したくらいだった。
「じゃ、あたしよすわ」
 注意されると、令嬢気質がいきなり頭をもたげかけたが、よしてしまっては生きる辛さに負けるようなものだと、やっと自分をおさえた。それに女ひとりでそれくらい新円のはいる商売は、もっと身を堕すか
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